水底

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「え、先生、今日来ないの」  帰宅と同時に告げられたのは、家庭教師の突然のキャンセルだった。 「うん。啓太くんによろしくって言ってたよ。でもお母さんも風邪っぽいからちょうどよかった」  母親は額に手をあて、ソファに座り直す。俺だけが空中に浮かんでしまったみたいに、気持ちのやり場がない。  こちらはずっと待っていた。  夏祭りに行くという同級生を振り切り、急いで帰ってきた。それなのに。 「ふうん」  汗をぬぐう手が震えないように気を付けた。母親の勘で、先生への気持ちがばれたら、あの淡い時間が消えてしまう。  デスクライトに照らされた部屋の片隅で、シャーペンの先が紙を滑る音と、ページをめくる音、睫毛の瞬き。  俺の書いた文字をなぞる指先。 ◇  高2の進路調査で鹿児島大を志望したとき、両親は少しだけほっとした表情を見せた。  いま住んでいる伊佐市から車で1時間ほど。  家を出ると宣言したわりには、自分達の生活圏に収まってくれたことが嬉しかったんだと思う。  「土日は帰ってくれば?」  なんて、呑気なことを口にした。  医学部に合格すれば、勉強漬けで年末年始だって帰れるかどうか。  ともあれ、俺に全面協力体制となった我が家は、俺が高校3年にあがる春休みから、週に1度、家庭教師が呼ばれることになった。医療機器メーカーに勤める父の知り合い、しかも医療関係の勉強会の講師として知り合った、鹿児島大卒の女性、と聞いていたので、きっとインテリのおばさんだろうと、俺は踏んでいた。  老眼鏡に厚化粧、茶髪パーマで胸元ブローチ、みたいな。  でも実際にやってきたのは、線が細くて飾り気のない、20代の若いお姉さんだった。  出迎えた母は、明らかにうろたえていた。  母も自分と同じくらいの(とう)がたった女性を想像していたのだろう。  看護師を長年続けている母は、その日、仲間と忠元公園で花見をするとかで、昼からせっせと唐揚げを揚げていた。  先生は玄関の奥へ向け、品よく鼻をそびやかし、家じゅうに漂う唐揚げの香りを嗅ぐと、 「お腹が空いて集中できなそうですね」  と笑った。痩せ気味の顔にぽこっとえくぼができた。  「先生は空腹なのだ」とバカ真面目に受けとった母は慌てて紅茶を淹れ、分厚く切ったロールケーキを添えて出した。 「すみません、こんなお若い方が来てくださると思わなくて。今日は出掛けなきゃいけないんですが、バカ息子をよろしくお願いします」  母が頭を下げると、先生も深々とお辞儀をした。ロールケーキを覆い隠すように、髪がさらさらと揺れた。
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