水底

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 それ以降、木曜日はほぼ毎週、二人で勉強をした。先生が学会の準備やら何やらで忙しいときは、金曜に延期したい、と提案してくれた。  キャンセル、と言われたのは初めてで、少なからずショックを受けた。  先生と俺の相性は、よかったと思う。  いつも地味な着こなしの先生は、辞書より早く単語や熟語の意味を並べて、長文をすらすらと解説してくれた。  下らない語呂合わせも得意で、ふたりでゲラゲラ笑っていると、帰宅した父が覗きに来たこともある。さすがに先生は恐縮し、あとでちらりと舌を出した。  3年になってから、英語だけメキメキと成績が伸び、文系の生徒たちから「鮎川が本気出してきた」と騒がれた。  1学期の最後に受けた全国模試で、過去最高順位を叩きだした。先生に結果を見せると、彼女はそれを食い入るように見つめた。 「ほんとに、この順位? やったね!」  ばしん!と肩を叩かれた。かなり強いスナップだったけど、痛みの分だけ、先生が喜んでくれたのがわかった。 「いってぇ。怪力かよー」 「怪力で頭もいいよ。最高の家庭教師だよ、私」  先生はふふん、と胸を張った。  確かに、結果を出したのは俺でもあり、先生でもあった。  いつも自分の上に数万の受験生がいて、道のりの果てしなさに目眩がしたものだが、ほんの数ヶ月で上位5千人に食い込むことができたのだ。 「そして君は、優秀な生徒だ」  うむうむ、と頷く先生の言葉に、俺は自分の顔が、だらしなく緩むのを自覚する。 「でしょー。先生、ご褒美、ご褒美!」  冗談半分、本気半分でいうと、先生は菩薩のような表情をつくり、 「ダメ。ご褒美は合格してからです」  と、首を振る。 「えー」 「その代わり何でもいいよ。焼き肉でも、ケーキでも」 「それ先生の食べたいものでしょ」 「あ、ピザもいいね」 「ほら、やっぱりー」  そんな風にふざけあう瞬間が楽しくて、これまで大量の課題もこなせていた。  8月に入って最初の木曜日の今日は、宿題の山そっちのけで、先生がくれた論文のコピーをなんとか読むのに夢中になっていたというのに。
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