水底

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「先生も風邪?」 「さあ」  母は、ますます具合悪そうに体を縮めた。母に夕食は自分で作るから、と休むように勧めた。  先生とは、LINEのIDを交換していた。勇気を出して紙飛行機のマークをタップする。   <先生、風邪?>  仕方なく、参考書を開いて読み進めようとしたけれど、集中できない。  エアコンをつけたり、止めたり、立ち上がったり座ったりしてしまう。  窓を開けても、西日の中、風は動かない。蝉やらキリギリスやらの声が、じりじりと体を炙るように鳴いている。明るさと熱さに目を細めた。  大したこと、ないよな。  たとえば、こちらの恋心が知れて、彼女が自分に会いたくなくなった、だとか。  まさか、と自分に言い聞かせた。  メッセージはなかなか既読にならず、返信も来なかった。  母は寝てしまったので、夕飯は蛍光灯だけが灯る暗い台所で、そうめんを茹でた。  青い光の中で、あっという間に噴き零れる。  白いそうめんをザルに上げ、湯を切り流水で冷ます。指の間を通る、さらさらとした白い糸を眺める。  ぴちゃん、ぴちょんと水がはねて、先生の髪を思い出してしまう。先生はそうめん、好きだろうか。  麺を啜っているとき、ようやくスマホが鳴った。 <お休みにしてしまってごめんね。もしかしたら、来週も行けないかもしれない>  頭を下げる女の子のスタンプが、一緒に送られてくる。  風邪、の問いに対する答えなのか、そうではないのか、判然としなかった。 <大丈夫ですか>  首を傾げるかわいいクマのスタンプを選んで送る。  既読、の表示がすぐについたが、それきり彼女からの返事は無かった。  不安とは呼べない大きさの、何かもやもやしたものが心の中を走り抜けた。しばらく待っても返信がないので、また、 <先生のくれた論文読んでます>  と送った。また、すぐに既読がつく。 <そうめん茹でました。 食欲ないなら、届けてあげたい>  この2行は、さすがに送ることはできなかった。  トーク画面では俺がまだ論文を読んでいることになっている。  既読になったのに、返信がない、ということは、画面を開いたまま眠ってしまったのかもしれない。まだ21時だし、ということは、本当に風邪なのかもしれなかった。  声は大きいけれど華奢な体。意外と体力がないのだろうな、と唇のめんつゆを舐めた。  先生の部屋はどんなところなのだろう。一人暮らしのはずだった。  アパート? マンション?  なんとなく、フローリングに小さなテーブルを置いて、物の少ない部屋で安物の布団に体を横たえている気がした。  部屋着もきっと地味だろう。どうせ白いタンクトップに、グレーのショートパンツ、とか。  想像できてしまう。  想像できてしまうことが、先生のことを知っている証拠のように思えて、恋しい気持ちが急激に増した。
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