水底

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 玄関の引き戸が開く音がし、父が靴を脱ぐ気配がした。しばらくすると、無言でビーズの暖簾をくぐって台所へ入ってきた。 「おう、なんだ、母さんは?」  俺がそうめんを啜っているの見た父は、細身の体を少しかがめたまま尋ねた。 「風邪みたい」  顎をしゃくって、夫婦で使っている和室を示す。 「そうか」  冷蔵庫から麦茶を出して一気に飲み干すと、和室へ、ただいま、と入っていく。ほどなく、ぼそぼそと話し声が聞こえた。明日病院に行くなら送る、だとか、そんな話だろう。父は着替えを持って風呂場へ向かう。 「今日、家庭教師は?」 「休みになった」  平静を装って、応じた。心臓を冷たいそうめんが一本伝うような、何か後ろめたさがあった。  同じ男同士、先生に対する思いを見透かされそうで、心が防衛した。 「そうか、じゃあ、今日は自分でちゃんと勉強しろよ」  父は、男にしては幅の狭い肩にバスタオルを引っ掻け、こちらに背を向けた。先生の住所や職場を知りたかったけれど、尋ねる勇気は出なかった。  シャワーの音が聞こえている間に、先生の名前と鹿児島大学を検索窓に打ち込んだ。研究所は大学の敷地の傍にあるようだった。  俺は、残りのそうめんを小さなどんぶりに移し、冷蔵庫に入れた。 「冷蔵庫にそうめん入れといた」  和室に声をかけると、思いがけず、母が出てきた。 「ああ……ありがとう。食べようかな」  微笑んだ顔を見てほっとした。
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