水底

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 ドアが細く開く。  白いTシャツ姿の先生が、顔を出した。 「啓太くん」  なぜ来たのか、と問うような視線に怯まないように、足に力を込めようとした。  けれど、会えた喜びと、緊張の糸が切れたせいで、よろよろとドアの縁に手をついて、反対の手で顔を覆った。こんにちは、と挨拶すると、 「ちょっと待ってて」  とドアを締められた。再びドアが開いたとき、先生は片手に財布と車の鍵を持っていた。 「ごめん、中、散らかってるんだ。近くにファミレスあるから、そこ行くが(いこう)」 「すみません」  するり、と部屋から出てきた先生から、甘い香りがした。部屋の中の匂いなのか、洗濯物の匂いなのか。香りに心を奪われていると、 「顔色悪いね。大丈夫?」  と心配された。 「ちょっと、熱中症ぽくて」 「どうやって来たの? お母さんかお父さんに送ってもらったの?」 「ええと、バスで」  先生の車でファミレスへ連れて行ってもらった。歩いても10分も掛からない距離だったとは思うけれど、猛暑のなか歩くことを思うと、救われた思いだった。  隣でハンドルを握る、先生の気配と香りが、俺をすっかり安心させた。  ファミレスの席について、水が運ばれてきてからようやく、先生は僕の来訪理由について尋ねた。 「わかんないとこでも、あった?」  彼女は遠慮がちに問い、すぐに水の入ったグラスに視線を落とす。口元は笑っているけれど、俺が先生を困らせているのがわかった。邪険にするような仲じゃないけれど、待ち焦がれていた来訪者じゃなかったのが、一瞬でわかった。 「心配で」  と俺は用意していた言葉を、これ見よがしに使った。先生の脚が、テーブルの下でもぞもぞと動いた。 「ああ……木曜日、ごめんね。なんか、いろいろあって。でも大丈夫だから。受験生に来てもらっちゃうなんて、先生失格だ」 「いえ、あの、何があったんですか」 「それは……いろいろだよ」 「……そうですか」  話してもらえないのか、と落ち込んでいると、 「でも、来てくれてありがとう。啓太くんの声聴けて、少し気分変わった」  笑うと、いつものえくぼが出来た。
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