プロローグ
三月吉日、東京郊外の瀟洒なホテル。
梅の花が咲きこぼれる日本庭園を望むロビーラウンジで、私はもうかれこれ二十分も座ったまま、正面の壁にかけられているタペストリーのほつれを凝視していた。
背筋を伸ばしているのは、母が朝から数時間もかけて着付けてくれた着物の帯を潰さないためでもあるけれど、あまりにきつく締め上げられて身体が曲げられないせいでもある。
目の前のコーヒーカップはすでに空になっている。
緊張のあまり、待ち人が来る前に飲み干してしまったのだ。
「お客さま。コーヒーのお代わりはいかがでしょうか」
「いえ、のちほどいただきます」
気遣うように声をかけてきたラウンジスタッフに余裕の笑顔を装ってみたけれど、約束の時間の三十分も前からスタンバイしている食いつきぶりが恥ずかしい。
土曜の昼間にこんな派手な着物姿でかしこまって座っていたら、今からお見合いですと宣言しているようなものだ。
夜会巻きに結い上げた髪が崩れていないか右手で確かめてから、ラウンジスタッフの視線に気づき、軽く咳払いをして座り直した。
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