吾輩は傘である〜漱介の場合〜

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 ある日の夕方、格子丸を連れて学校に行っていた漱介が、雨に濡れた運動靴で玄関に駆け込んできた。  ずぶ濡れの格子丸は、留守番を強いられた吾輩に自慢するように、 「あぁ、疲れた疲れた。朝から出ずっぱりでクタクタだぜ」  と低俗に当てこする。  漱介はその格子丸を傘立てに突っ込むと、吾輩の白いハンドルを掴んで再び玄関から飛び出した。  雨に濡れた漱介の手は、ひんやりと冷たい。それなのに、ドクンドクンと波打つ血潮が、人の温もりを感じさせた。  吾輩が漱介に連れ出されるのは、二度目である。  口悔しいことに、漱介はやはり格子丸を常用しているらしく、吾輩の出番は少ない。しかしながら今回は、わざわざ格子丸を置きに戻ってまで吾輩を迎えに来てくれたのであるから、どうしても吾輩を連れて行きたい場所でもあるのだろう。  階段を駆け下り、小走りにマンションの廊下を抜けた漱介は、そこでピタリと立ち止まった。汗ばみ熱を持った手が、彼の鼓動を伝えてくる。吾輩の石突きまでが、小さく震えた。  漱介が見つめる先には一人の少年が立っていた。  歳の頃は、漱介と同じくらいだろうか。彼と同じ制服に身を包んだ、小柄な少年である。  駐輪場の屋根の下で、ふてくされたような顔で雨を見つめる姿を見れば、突然の雨に打たれとっさにそこに駆け込んだものの、傘も無いため途方に暮れている様子がよくわかる。  漱介はこの少年に、傘を貸してやりたいのだろう。  吾輩は傘である。  住み慣れた漱介の家に多少の愛着はあるが、少年を雨から守るという使命のためにここを離れるのであれば、本望であった。  漱介は一度、吾輩を握る手にギュッと力を込めると、駐輪場へ走った。短い距離だが、屋根がない。バシャバシャという音に気づいて振り向いた少年の前に、漱介は吾輩を差し出した。 「これ、使えよ」  低い声が、雨の音に混じる。  漱介の鼓動が、吾輩の体を揺らした。  何をそんなに緊張しているのだ、と吾輩は思う。大きな図体をして、学友に傘を貸すくらいのことに、何故それほどに動揺するのか。  少年は驚いた顔で、言葉を失っている。漱介が腕をさらに押し出すと、目の前まで差し出された吾輩を、まだ幼さの残る手が受け取った。少年の手は漱介のそれと違い、真冬のように冷えきっていた。 「あの…… 」  少年がなにかを言いかけたのにもかかわらず、漱介はくるりと背中を向けてその場を走り去った。  同じ制服を着ているというのに、知った仲ではなかったのだろうか。  新しい主人となった少年の手が、吾輩を介して漱介の熱が移ったかのように、少しずつ温まった。
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