吾輩は傘である〜漱介の場合〜

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 葉一と漱介の再会は、ある蒸し暑い夕方に果たされた。  その日も葉一は吾輩を伴って登校し、漱介のマンション付近に差し掛かると歩を緩めた。そして逆に、なぜか拍動が早くなるのだ。  するとその時、葉一の脇を一陣の風が吹き抜けた。葉一の前髪を揺らした風の正体は、自転車に乗った漱介であった。  彼は背後から走ってきて葉一を追い抜くと、マンション脇の駐輪場に入っていく。葉一の鼓動が、未だかつてないほどに強く吾輩に伝わった。  漱介は駐輪場に自転車を停め、こちらに背中を向けたところであった。 「あの!」  葉一の声に、漱介がゆっくりと振り返る。()の家にいる頃には気がつかなかったが、葉一の胸の高さから見上げる彼は、随分と長身である。  呼び止められた漱介は、葉一の姿を認めると目を丸くした。 「ありがとう、ございました。傘」 「あぁ」  葉一が歩み寄り、両手で吾輩を漱介に差し出した。  吾輩の体が小刻みに揺れる。吾輩が自ら揺れているのではない。葉一の手が、震えているのである。  無言で受け取った漱介の手は、葉一のそれに比べて随分と無骨だ。しかし、その体温は葉一と同じように上昇しており、持ち主が変わったというのに、吾輩の揺れは止まらない。  蒸し暑い初夏の空気が、二人の間に沈黙を落とす。  吾輩を返した葉一はそれ以上言うべきことがないらしく、その場で頭を下げて踵を返そうとした。 「将棋部の!」  それを引き止めたのは、漱介であった。 「中原、だよな?」 「そうです」  会話の弾まぬ二人である。  無言で向かい合う男子高校生の影を、沈みかけの夕陽が少しずつ動かした。 「その……将棋部の主将、うちのクラスで。すげえ強い1年が入って来たって喜んでたから」 「いえそんな、それほどでも……」  言葉だけを捉えれば、全く盛り上がっていないというのに。二人がこの会話を終わらせたくないと思っていることが、じっとりと体にまとわりつく空気よりも強く感じられた。 「俺さ……じいちゃんが生きてた頃は、将棋、指してたんだ。下手だけど。だからその、今度」 「対局ですか?!」  うつむいていた葉一が、突然明るい声をあげた。よほど将棋が好きなのであろう。  その好意的な反応に、漱介の鼓動が跳ねた。 「対局、って言えるほど、相手にはなれないと思うんで……とりあえず飛車角落ちでお願いできるかな?」  一瞬の沈黙の後、あはは! と、まだ幼さを残す笑い声が響いた。葉一と共に過ごして半月ほどになるが、彼の笑い声を聞いたのはこれが初めてである。 「先輩、プライド……」 「あるよ! 二分で負けたくねぇからハンデつけんの!」  葉一はひとしきり笑ってから、弾むような声で「いいですよ」と言った。  吾輩を握る漱介の手が熱い。  梅雨の晴れ間の、七月のはじめのことであった。
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