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漱介は家に戻ると、上がり框に腰を下ろした。
盛大なため息をつくので何ごとかと思ったら、「うはは」とだらしない笑い声をあげ、吾輩を胸に搔き抱いた。
葉一に丁寧に畳まれ、美しい螺旋状に巻かれた吾輩の傘布が、逞しい胸板と硬い腕に圧される。
漱介はそれから再び「ふへへ」と変態じみた笑いを漏らすと、吾輩を掲げて傘布に横っ面を押しつけた。彼の頬は驚くほど熱く、緩みきっている。くつくつと腹を震わせ、笑いが止まらぬ様子であった。
吾輩の帰還を喜び、愛でているわけではない。
そんなことは、阿呆でもわかる。
恋……なのだな。
吾輩は得心した。
男同士だということは、当人が一番わかっているだろう。それでも、抑えられないのが、恋なのだ。恋はするものではなく、堕ちるもの。
衆道は古来より繰り返されて来た人の営みである。
認められにくい道かもしれぬが、誠に微力ながら吾輩だけでも不器用な二人を応援しようではないか。
そう静かに心に決めた吾輩ではあるが。
そろそろ暑苦しい抱擁を吾輩に向けるのはやめ、将棋の練習でもしろと言いたいところではあった。
「あっ! てめえアポ、戻って来やがったのか!」
開口一番、憎まれ口を叩いたのは久々に見る格子丸であった。
「そんなに喜ばれると照れるではないか、格子丸」
「誰も喜んじゃいねぇよ! 寝言は寝て言えこの無個性ビニール野郎!」
「吾輩の傘布はビニールではないと以前にも説明したというのに。やれやれ、格子丸にはちと難しい話だったようだな」
「調子に乗んじゃねぇよ非晶質ポリオレフィン! おめえは知らねぇだろうけどな! ポリってのは『いっぱい』って意味なんだよ、あぁ? つまりてめえはどう転んでも無個性の量産品だ! 思い知ったかポリポリポ〜リ!」
吾輩は軽い衝撃を受けた。吾輩の傘布の素材名を、格子丸が覚えていた。からかってくるその言い方はまるで幼児ではあるが、そもそも興味のないもの相手にからかいなど発生しない。
吾輩は、ここに戻って来られて嬉しいのだぞ。
そう素直に伝えたら、こやつはどのような反応を見せるだろうか。
そんな空想をした次の瞬間、吾輩は突然、傘立てから引き抜かれた。皺のある乾いた手。その手の持ち主は、漱介の祖母であった。
我々の会話は、人間には聞こえていない。おそらく靴や鞄も互いに話をしているのであろうが、その声が我々には聞こえないのと同様に。
だからこの老婦人に引き抜かれたのは、品のない会話を咎められてのことではないはずである。
こんな夜分に外出でもなかろう。
そう訝しむ吾輩のハンドルに、彼女は突然何かを貼り付けた。感触からして小さなシールのようなものであろうが、自分では見えない位置で、正体がわからない。
老婦人は満足したらしく、吾輩を再び傘立てに戻し去って行く。
訳が分からぬ吾輩は、何が貼られたのかと格子丸に聞いてみた。
吾輩より少し背の高い彼は、こちらのハンドルを見るや、ぶはっと吹き出した。
どんな愉快なものが貼られたのかと思って尋ねても、笑うばかりで答えない。「お父さん」や「お母さん」に聞こうとしたが、既に眠ってしまったらしく返事がない。
「いいんじゃねぇの、それ! 個性だよ個性!」
そう下品に笑われ、朝になったら他の誰かに聞けば良いと思いながら、吾輩はそのことをすっかり忘れてしまった。
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