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翌日は朝から雨で、漱介は格子丸を連れて登校した。「お父さん」も出勤だ。吾輩は久しぶりに一日体を休められると思い、すいた傘立ての中で寛いでいた。
すると、柔らかい手が吾輩のハンドルに触れた。おや、と思うと漱介の母親である。
彼女は吾輩を見ると、クスリと笑った。
「お義母さんったら…… 」
小さな声でそう言って、そのまま吾輩を引っ張り上げた。どうやら漱介のいぬ間に吾輩を連れ出すつもりらしい。
吾輩としては、傘として仕事を全うできるのであれば母親と同伴することもやぶさかではない。
格子丸と違い、「お母さん」は快く吾輩を見送ってくれた。玄関を出ると雨足はかなり強く、たしかに今日のような日は晴雨兼用の「お母さん」では心許なかろう。吾輩は意気揚々と使命を果たし、この冷たい雨から婦人を守る喜びに浸った。
目的地は、コンビニエンスストアであった。葉一が「駅前にしかない」と言った例の店であろうか。
吾輩はずぶ濡れの体をつぼまれ、傘立てに差された。婦人が店内に入るや否や、何やら賑やかな声が聞こえてくる。どうやら知人に遭遇したらしい。話し声は続き、そのまま数十分は話しただろうか。その間に雨脚が弱まり、アスファルトに水たまりを残して雨は上がった。
そして、社交と買い物を済ませたらしい漱介の母が店を出てきたとき、吾輩の危惧は現実のものとなった。彼女は吾輩の存在を忘れ、振り向きもせずに去ってしまったのである。
吾輩は婦人の後ろ姿を、虚しく見送った。
取り残された……
その事実は、寒風のように我が中芯を吹き抜けた。
傘立てには、吾輩とよく似た透明の傘ばかり三本。そのうちの一本が、店から出てきた客の手で引き抜かれて行く。その手が吾輩のハンドルにかすった時には、肝を冷やした。
「無個性の量産品」そう揶揄した格子丸の声が蘇る。
こんなところにいたら、誰かに連れ去られてしまうではないか。吾輩は漱介の母親が一刻も早く失態に気づき、吾輩を迎えに来てくれるよう切に願った。
藍色を覆う厚い雲の隙間に、細い月が浮かんでいる。
置き去りにされてから、半日ほど経ったであろうか。
待つ身がこれほどつらいものだったとは。
漱介の家の傘立てにいるときには、何日放置されても気ままに短歌などひねっていられたというのに、コンビニの軒下で過ごすこの時間には、まるで三日もこうしているような疲労を覚えた。
店を出てきた人間に、何度も拐われそうになった。降ったりやんだりの天気で、傘の出入りが激しい。人の手がハンドルをかすめるたびに、ひやりと身を縮めた。
掴まれたときに傘があげる驚いたような声に、その手が本来の持ち主ではないことは容易に想像できる。次はわが身かと慄くことも、一度や二度ではなかった。
そして今コンビニ前の傘立てに残るのは、吾輩一本のみである。
吾輩のように廉価な傘なら、良心の呵責を感じることなく「拝借」してゆく者も少なくないだろう。
もしも見知らぬ誰かに手に取られたら、もうあの家には帰れないのだな……
もう、会えぬのかもしれんな……
そんな諦観が吾輩を支配したその時。
「あれぇ?」
覚えのある声が聞こえた。
疲弊した体に、温かい手が触れる。
吾輩を覗き込んでいるのは、葉一であった。
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