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バシャバシャと、濡れたアスファルトを駆けてくる音がする。格子柄の傘をさした大柄な男。葉一から連絡を受けた漱介が、迎えに来てくれたのである。
「悪い、遅くなって。家族に確認してたら、時間かかった」
「いえ、全然」
葉一は小さく頭を振り、吾輩を掲げて見せた。
「それ、やっぱ俺のらしい。……ありがとう、ホントに」
漱介が受け取ると、葉一は嬉しそうにはにかんで顔を伏せた。
「誰かに持って行かれなくて、よかったですね」
そう言われ、漱介は「それな」と笑った。
「そこはばあちゃんに感謝」
顔を上げた葉一が、首を傾げる。
「これ、貼ったのばあちゃんだって」
漱介が吾輩のハンドルを指差すと、葉一が小さく吹き出した。
「誰でも怯むだろ? しかもひらがなで」
「おかげで僕は、先輩のだってわかったんですけどね。あと、僕が借りた時も、APOのAのとこがちょっと削れてたから」
雨の降り続く空を見上げ、葉一が自前の傘を開く。開いた傘布の分だけ離れ、二人は並んで帰路を歩き始めた。
いつか、彼らが肩を寄せて歩く日は来るのであろうか。遠く雲間から差し込む月明かりの下で、吾輩はぼんやりと、その日を夢想した。
「……ったくおめえはよぅ、フラフラ出歩いて迷子んなってんじゃねぇよ」
二人の会話を見守るように黙っていた格子丸が、おもむろに憎まれ口を叩く。
思えば、彼が傘布を開いた姿を見るのは初めてのことである。張り出したその傘布は大きく、男らしい。その懐中に守られることが、これほど暖かく心休まるものとは知らなかった。
「格子丸、ありがとう」
「はぁっ!? 俺じゃねぇし!! 迎えに来たのは漱介だっつーの!」
「嬉しいのだ。礼くらい言わせてくれ」
「……ふん」
狭い歩道にさしかかり、暗いショーウィンドウに、漱介の腕にかけられた自分の姿が映っている。
それを見た吾輩は、すべての謎がとけた気がした。
吾輩のハンドルには、漱介の苗字である「下呂」が、ラベルテープで貼り付けてあったのである。
しかも、ひらがなで。
なるほど。
いやなかなか、天晴れな婆さんではないか。
情けないやら、恥ずかしいやら。
それでも、吾輩が誰にも持ち去られず、格子丸と共に漱介の家に戻れるのは、間違いなくこのテープのお陰である。吾輩は素直に、老婦人に感謝を捧げた。
嗚呼、ありがたい、ありがたい。
【了】
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