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本当にあの旗振りには困るよなぁ……。
今朝の大騒ぎを思い出し、苦笑いを浮かべた。何事に対しても熱く、やや過干渉な父親の志郎が、浬はちょっと苦手だ。ここ数年は少しでも顔を合わせるとなると、とにかく気が重い。
そうは言っても、同じ屋根の下に住んでいるのだから、彼を避けられるはずもなかった。
浬は部屋着のスウェットに着替え、恐る恐る扉を開けて階段を下り、一階のリビングへと向かう。だが、そこには母の洋子がいるだけだった。
「あぁ、やっと下りて来た。お父さんがうるさいから、またへそ曲げちゃったのかと思ったわよ」
安堵した様子で、洋子はご飯茶碗に白米をよそってくれる。テーブルの上には湯気の立っている夕飯と箸が揃えられて置かれていた。リビングはテレビが点いているだけで静かなものだ。浬はふと部屋中を見渡して聞く。
「父さんは――?」
「今日は南部剣の日でしょ。さっき稽古行っちゃったわよ」
「さっきの恰好で行ったの?」
「まさか……! 袴くらいちゃんと穿いてったでしょ」
テレビを見ながら、洋子はけらけら笑う。「はい」と手渡されたご飯茶碗からは、ほかほかの湯気が立っている。今日のおかずは浬の大好物である、目玉焼き付きのハンバーグだった。味噌汁も、一番好きなネギと油揚げ。浬は手を合わせて「いただきます」と言ってから、まずはじめに味噌汁をすすった。
「ねえ、浬」
「ん……?」
「父さんさ、最近うるさいでしょ」
「うん」
罰が悪そうに、「ごめんね」と困り顔で洋子は笑った。彼女はもうここ数年間、何かと衝突することの多い浬と父親の仲介役だ。ただし、洋子は浬の抱えている悩みや、気持ちを一度も尋ねなかった。恐らくだが、彼女は感覚的に理解してくれているのだ。浬が剣道に関して悩んでいることや、小笠原家の人間として窮屈に思っていることを。
「でも、我慢してやって。きっと浬が剣道やるって、剣道部に入りたいって言ってくれたことすごく嬉しかったんだと思うから」
「わかってるよ、それくらい。今朝の大旗振ってるの見たら」
「そっか」
洋子は今朝の大騒ぎを思い出しているのか。ダイニングテーブルの向かいの席に着き、頬杖を付きながらくすくす笑っている。
「それに母さんもね、嬉しいと思ってるよ」
「おれが剣道また始めたこと?」
「うん。だって浬、このまま剣道嫌いになっちゃうのかと思った」
「嫌いになっちゃダメなわけ」
「そうじゃないけどさ、この家で剣道嫌いになっちゃうのはちょっと辛いでしょ。だから、嫌いにならないでくれたなら、よかったなぁって」
「ふうん……」
洋子はやはり、決してそれを深くは聞かない。一体浬の心を動かしたのは誰なのか。どんな出来事がきっかけだったのか。それを明らかに知りたがっているのに、絶妙な距離感で放っておいてくれる。
そのせいだろうか。浬は敢えて洋子には話したくなった。
「母さん。おれ、今日剣道楽しかったよ」
「へえ」
「今さ、船高には一緒に稽古したいって思う人がいるんだ」
「あらま。楓くんじゃなくて?」
「楓は道場でいつも一緒だったからなぁ。傍にいてくれると安心はするけど」
楓の場合は、どうも慣れ過ぎてしまっているのだ。稽古の時、同じ環境に彼がいることで、浬は無条件に安心感を得られる。彼とは謂わば兄弟のようなものだ。剣道に限らず、浬が楓と一緒にいることは当たり前であり、自然なことだった。
ただし。高校へ上がってから、楓は航に対して当たりがすこぶる強い。そのせいで、浬が楓と一緒にいて得ていた安心感は今、不安感に変化しつつある。
「なんて子なの?」
「朝比奈。朝比奈、航っていうの。すっごい強いんだ。中三んときの総体で県の個人戦準優勝だったんだから」
まるで自分のことのように得意げになって、浬は言った。すると洋子は「はて」と顎に手をやって、首を傾げる。
「朝比奈くんて……、母さん、なんか聞いたことある気がする」
「やっぱり有名なんだ。剣道部でも一緒だけど、おれ今、同じクラスなんだよ」
「ふうん。じゃあさ、今度遊びに連れて来たら? そんなすごい子なら、お父さんきっと喜ぶんじゃない?」
「……絶対嫌だ。どうせなら父さんがいない時にする。また大騒ぎして迷惑かけそうだし」
「それもそうだね……!」
洋子はそう言ってくすくす笑う。浬は頬を緩めた。そのうち、いつか今よりももっと仲良くなったら、彼がこの家へ遊びにやって来ることもあるだろうか。浬はその頃には、今よりもっと、彼に近づくことができるだろうか。
航と一緒に剣道がやりたい。大地や羽柴先輩みたいに、おれももっと航を知って、近づきたい。それから――。
いつかあの舞台で、航と一緒に戦いたい――。
浬が目指すのは、インターハイ県予選、団体戦決勝の場。もっと言えば、そこで優勝を飾りたい、と思う。
浬が剣道部に入った動機として、それはもしかすると、不純だと言われてしまうのかもしれない。けれど、止められない。なぜなら浬は今、久しぶりに楽しいのだ。
「明日も頑張んなきゃな――」
心の中の声が、口から漏れた。すると、洋子がまた笑みを零す。
「頑張りなさい、少年」
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