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航が彼をじろじろと見つめていたからか。大地が目の前でわざとらしく咳ばらいをして言った。
「ふふん、気になるなら紹介してやろう! このべっぴんさんはね、小笠原浬ちゃんといいます!」
なにを得意げになってるんだ、とそのテンションの高さに呆れながら、航は小笠原浬、というらしいその男子生徒にまた目をやった。彼はとても――恥ずかしそうに困り顔で笑みを零している。男でありながら「べっぴん」と言われては無理もない。しかし、それもまた事実ではあった。
「おがさわら? どこの中学だった?」
「船戸、南部中……」
「南部中かぁ。ん? ちょっと待てよ――」
航は顎に手をやって首を捻った。小笠原、という名前は聞いた覚えがある。いや、それ以上だ。一時は毎日のようにその名前を家で聞かされた記憶が、航にはあった。それを思い出すのは、若干うんざりしてくるくらいだ。
「お前もしかして――、南部剣の小笠原?」
浬は、どこか申し訳なさそうにこく、と頷いた。
「なーんだ、航。カイちゃんのこと知ってんの?」
知ってるもなにもない……。
小笠原、というその名前にうんざりするほど聞き覚えがあったのは、父親のせいだった。
航の父親、朝比奈良治は地元小学校の教諭を務めている。良治は非常に穏やかな人間に見えるが、実際はとても冷酷で、薄情だった。よく言えば真面目で冷静。感情の起伏の無い、穏やかな男。しかし、実はそこに思いやりや、優しさは存在していない。我が父親ながら航は思う。彼はそういった人間的な感情を失ってしまっているのではないか、と。
普段から口調が柔らかく、にこやかであるせいだろう。良治を知る人はたいてい、彼を気遣いのできる優しい人だ、と信じているはずだ。しかし実際のところ、彼は効率と自分に利があるかどうか。それのみで物事を判断しているだけだった。その証拠に、必要ない、自分に利がない、と思った物や人間、またはその関係に、良治は一切の興味を示さない。必要ない、と思った時点でなんでも即座に切り落とす。そこに感情は全くと言っていいほど乗らないわけだ。それは、家族だけが知っている朝比奈良治という人間の真の姿だった。
ただし、そんな彼にも唯一、感情的になる瞬間がある。地元で活動する船戸南部剣友会、通称『南部剣』の話をするときだ。彼はそこに所属する人間を好んでいなかった。特にその中でも会長を務めている小笠原志郎という男を毛嫌いしているようだった。
以前、夜間にとある小学校で行われていた剣友会の活動に対して、近隣住民から苦情が出たことがあったらしい。その際に対応したのが当時、そこの職員だった良治であり、その剣友会というのが南部剣だったわけだ。聞いた話では、良治は小笠原志郎と真っ向から対立したのだそうだ。
その結果、南部剣は長年活動してきた小学校の夜間の使用をやめ、別の小学校の体育館を借りることになった。ただし、そこに落ち着くまでにも相当もめたのだろう。それ以来、良治は南部剣友会そのものを悪く言うようになった。そのせいで、一時は航も剣道をやめさせられそうになったこともあるほどだ。
「そっか、浬……。南部剣の、小笠原先生んとこの――」
「うん……」
「じゃあ、剣道部だったのか?」
航の問いかけに、浬は弱々しくかぶりを振った。妙だと思ったのは、南部剣の小笠原と聞けば、すぐに顔も名前もわかるはずなのに、航は浬を知らなかったことだった。小笠原一家は剣道界の中でも有名だ。志郎とその妻、そして子どもたちもみんな、揃って剣道経験者なのだと聞く。
もちろん、父親が剣友会の会長であるのなら、それは自然なことだとも思える。つまり浬が志郎の息子だとすれば、浬もまた剣士であるのだろうし、中学では剣道部にはもちろん所属して、広く知られていてもおかしくはないはずだった。それなのに、航は浬を見たことも、その名前を聞いたことすらもなかったのだ。
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