1【出会いの春】~朝比奈航~

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 航が彼をじろじろと見つめていたからか。大地が目の前でわざとらしく咳ばらいをして言った。 「ふふん、気になるなら紹介してやろう! このべっぴんさんはね、小笠原(おがさわら)(かいり)ちゃんといいます!」  なにを得意げになってるんだ、とそのテンションの高さに(あき)れながら、航は小笠原浬、というらしいその男子生徒にまた目をやった。彼はとても――恥ずかしそうに困り顔で笑みを零している。男でありながら「べっぴん」と言われては無理もない。しかし、それもまた事実ではあった。 「おがさわら? どこの中学だった?」 「船戸(ふなと)南部(なんぶ)中……」 「南部(なんぶ)中かぁ。ん? ちょっと待てよ――」  航は(あご)に手をやって首を(ひね)った。小笠原、という名前は聞いた覚えがある。いや、それ以上だ。一時は毎日のようにその名前を家で聞かされた記憶が、航にはあった。それを思い出すのは、若干うんざりしてくるくらいだ。 「お前もしかして――、南部剣(なんぶけん)の小笠原?」  浬は、どこか申し訳なさそうにこく、と頷いた。 「なーんだ、航。カイちゃんのこと知ってんの?」  知ってるもなにもない……。  小笠原、というその名前にうんざりするほど聞き覚えがあったのは、父親のせいだった。  航の父親、朝比奈(あさひな)良治(りょうじ)は地元小学校の教諭を務めている。良治は非常に穏やかな人間に見えるが、実際はとても冷酷で、薄情だった。よく言えば真面目で冷静。感情の起伏(きふく)の無い、穏やかな男。しかし、実はそこに思いやりや、優しさは存在していない。我が父親ながら航は思う。彼はそういった人間的な感情を失ってしまっているのではないか、と。  普段から口調が柔らかく、にこやかであるせいだろう。良治を知る人はたいてい、彼を気遣いのできる優しい人だ、と信じているはずだ。しかし実際のところ、彼は効率と自分に利があるかどうか。それのみで物事を判断しているだけだった。その証拠に、必要ない、自分に利がない、と思った物や人間、またはその関係に、良治は一切の興味を示さない。必要ない、と思った時点でなんでも即座に切り落とす。そこに感情は全くと言っていいほど乗らないわけだ。それは、家族だけが知っている朝比奈良治という人間の真の姿だった。  ただし、そんな彼にも唯一、感情的になる瞬間がある。地元で活動する船戸南部剣友会(ふなとなんぶけんゆうかい)、通称『南部剣(なんぶけん)』の話をするときだ。彼はそこに所属する人間を好んでいなかった。特にその中でも会長を務めている小笠原(おがさわら)志郎(しろう)という男を毛嫌いしているようだった。  以前、夜間にとある小学校で行われていた剣友会の活動に対して、近隣住民から苦情が出たことがあったらしい。その際に対応したのが当時、そこの職員だった良治であり、その剣友会というのが南部剣だったわけだ。聞いた話では、良治は小笠原志郎と真っ向から対立したのだそうだ。  その結果、南部剣は長年活動してきた小学校の夜間の使用をやめ、別の小学校の体育館を借りることになった。ただし、そこに落ち着くまでにも相当もめたのだろう。それ以来、良治は南部剣友会そのものを悪く言うようになった。そのせいで、一時は航も剣道をやめさせられそうになったこともあるほどだ。 「そっか、浬……。南部剣の、小笠原先生んとこの――」 「うん……」 「じゃあ、剣道部だったのか?」  航の問いかけに、浬は弱々しくかぶりを振った。妙だと思ったのは、南部剣の小笠原と聞けば、すぐに顔も名前もわかるはずなのに、航は浬を知らなかったことだった。小笠原一家は剣道界の中でも有名だ。志郎とその妻、そして子どもたちもみんな、揃って剣道経験者なのだと聞く。  もちろん、父親が剣友会の会長であるのなら、それは自然なことだとも思える。つまり浬が志郎の息子だとすれば、浬もまた剣士であるのだろうし、中学では剣道部にはもちろん所属して、広く知られていてもおかしくはないはずだった。それなのに、航は浬を見たことも、その名前を聞いたことすらもなかったのだ。
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