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「いや、何かあったってほどのことじゃないんですけどね……」
「そうなの?」
楓との喧嘩や言い合いは、今や日常でもある。それがある度に、誰かに相談していたのではキリがない。ましてや、愚痴を零したところで解決するようなことでもなかった。
「はい……。羽柴先輩はこれから部室行くんですか?」
「そうなんだけど、織田先生に呼ばれててさ。先に教官室行くとこ。お前は? これから部室?」
「はい」
「じゃ、一緒に行こうか」
そう言うと、羽柴は航の肩をポンと叩いて、背中を軽く押した。我が市立船戸高校の剣道場は、体育館の真下にある。その隣が体育教官室だ。主に、運動部の顧問教師は体育教官室にいる場合が多かった。
今、羽柴が言った、織田先生というのは、剣道部顧問教師の織田壮一のことである。普段は優しい社会科の教師だが、部活となると途端に彼は熱くなる。生徒を叱る時には鬼のような形相になることから、『鬼人の織田』と揶揄されることも多かった。
羽柴に促されるようにして歩きながら、航は聞いた。
「先輩、今日から新しい部員入るって聞いてます?」
「あぁ、聞いてるよ。あの小笠原一家の末っ子だろ? なんだっけ、名前……」
「浬。小笠原浬です」
「よく知ってるね」
「俺、同じクラスなんですよ」
「へぇ、そうか。やっぱり剣道は抜群にうまいんだろうなぁ」
「でしょうね」
なんと言っても、あの、小笠原一家なのだ。うまい、というか強いに決まっている。打ち方だってきっと癖もなく、綺麗なのだろうな、と航は想像した。父親が道場の先生で、剣友会の会長。そんな家庭環境で幼い頃から竹刀を握らされ、稽古を積み重ねていれば当然だ。
「負けんなよ、航」
不意に羽柴がそう言って、航の肩をグッと掴む。航は苦笑いをして見せた。
「いやいや……。ちっちゃい時から剣道やってる奴に敵いませんって。俺は中学からしかやってないし」
「何言ってんだよ。おれもちっちゃい時から剣道やってんだぞ。なのに、お前と稽古してて打たれることだってあるだろ。お前は運動神経もいいし、打ち方も変な癖がなくて真っすぐだ。スピードだって、瞬発力だって他の奴に全然負けてない」
「そう、なんですか……?」
「面付け始めた時から見て来て、一緒に稽古してきたおれが言ってんだぞ。お前は筋もいいし、強いんだ。ちゃんと自信持てよ」
羽柴は、いつもそうやって航に勇気をくれる。お前は強い、大丈夫だと、そう言ってくれる。その言葉がどれほど真実なのかはわからなくても、彼のくれる言葉は嬉しいものだった。
「ありがとうございます……」
「航の強さはみんなが知ってるし、織田先生だって一目置いてる。――いいか。あの北条だって、お前が強いから嫉妬してぶつかってくるんだからな」
「え――?」
「おれが気付いてないとでも思ったか?」
そうか……。羽柴先輩は北条が俺にだけ突っかかって来ること、気付いてたんだ……。
航はその事を、部内の誰にも話したことはなかった。いちいち突っかかって来る楓との言い合いは毎日絶えないし、攻撃的な部分は苦手ではある。しかし、航は楓が嫌いなわけではない。
また、同じ部内で誰かを嫌がり、悪く言えば、チームの雰囲気は悪くなり、絶対に纏まらない。航はそうなることだけは避けたくて、信頼する羽柴にも、楓と折り合いが悪いことは黙っていたのだ。
「まぁ――、あいつもさ、お前のことが嫌いとかそういうわけじゃないから。悔しい気持ちをぶつける所がないんだよ。今は腹立つこともあるかもしれないけど、とりあえず多めに見てやれ」
羽柴のくれた言葉に、航は一瞬で救われた。楓との問題が直接的に解決したわけではないが、それによって悶々としていた気持ちが解れていく感覚が確かにあったのだ。もしかすると、航の不安はとうの昔に彼に見抜かれていたのかもしれない。さすが、羽柴だ。
「……すごいですよね、先輩って。ほんとよく見てる」
「えっ?」
「みんなのことですよ。俺のこともだけど、みんなのこと、本当にいつもよく見てるんだなぁって」
「すごくなんかないよ。まぁ、なんというか――、そういう性分なだけ」
「でも、俺は救われてる部分デカいです。先輩追いかけて、船高来てよかったです」
航がそう言うと、羽柴はたちまち頬を染めた。
「あのな……、急にそんなに褒めても、何も出ないからな」
「俺は本当のこと言ってるだけですって。羽柴先輩のみんなを気遣うところ、本当に尊敬してるんで!」
「航……。お前って奴はぁ……っ!」
そう言うなり、航は羽柴に抱きしめられた。自分よりも少し高い背と、逞しい体格を持った羽柴だ。ぎゅうぎゅうと抱きしめられれば、航はまるでプロレス技をかけられたように呼吸できなくなる。とてつもなく、強い力だ。
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