1【出会いの春】~朝比奈航~

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 その日の稽古は、浬の自己紹介からはじまった。やや緊張気味ではあったようだが、浬はやはり深々と頭を下げて、しっかりした口調で名前と、所属している道場名を名乗っていた。その後、一同は普段の開始時間よりも少し遅れて準備体操をした後、素振りに入った。 「正面素振り三十本、はじめ!」  航は隣にいる浬にちらっと目をやった。浬の身に着けている防具は恐らくかなり良質なものだ。剣道の防具というものは、ピンからキリまで様々だが、それが高級品であることは間違いなかった。左胸に白い家紋が入れられているところを見る限り、値段は相当するはずだ。しかも、それも胴着と同じようにやや色褪せていて、使い込まれた感じがありありと見て取れる。いかにも稽古を多く積んだ剣士の姿だった。 「一! 二! 三! 四――」  また、素振りにしても彼は同じことが言えた。竹刀を振りかぶってから下ろし、目の前でピタッと止める動作や足さばきには、変な癖や無駄が一つもない。気合いの声も出し慣れている。浬の声は少し掠れていて高めだが、実によく通る、いい声だった。  剣道では気合の掛け声を出すことが多いが、その出し方や声質は人それぞれであり、多様だった。そこに決まりがない分、剣士の数だけ掛け声の種類がある、と言っても過言ではない。中には低い声を出す者もいるし、裏声を使ってやたらと甲高い声を出す者もいる。だが、浬の声は強さや迫力を感じる上に、耳障りなわけでは決してなく、よく通って響いていた。きっと、その場にいた誰もが同じことを思っていたに違いない。  その後、素振りが終わると、各自面を付けて基礎打ちの稽古が始まる。航は浬とペアを組むことになったが、浬はやはり航の――いや、皆の期待を裏切らなかった。 「切り返し!」 「はい!」  まずは部長の一声で、全員が『切り返し』と呼ばれる稽古法を始める。それは基礎稽古の中の基礎稽古だ。構え、打ち、足さばき、間合いの取り方、呼吸法など、剣道に於いて重要な要素が、それには詰め込まれている。大抵、どこの道場や部活動でも、この『切り返し』という稽古を一番最初に行うことが多い。航は浬が打ち込んでくるのをしっかりと受け止めながら、感心していた。  打突がしっかりしてる。ちゃんと重みがある――。  一本、一本の打突は強く、全くと言っていいほどその打ち方には癖がない。もちろん、無駄もない。足さばきだって完璧だ。技を打つスピードは速く、また打突は強く、その後の残心と呼ばれる、打った後の姿勢もまた美しかった。  すごいな……。浬は背はそんなに高くないし、体だってそんなにがっしりしてるわけじゃなさそうなのに。全然小さく見えない。  浬の背は、恐らく百六十後半くらいだろう。少なくとも百七十はないはずだ。確か身長は、大地が百七十ちょうどだと思ったが、浬は大地よりも背が低い。また、その体つきは決してひ弱ではなく、筋肉質ではあるものの、剣道部の男子の中では極めて細い方だった。それなのに、航は浬と対峙した途端に、その体中から溢れ出るような気迫を感じた。それは大会でもなかなか感じることのない、真に実力のある剣士のみから感じるものだった。  こいつは本物だ……。浬は部活に入っていなくても、ちゃんと稽古を積んできたんだ……。  まさに一目瞭然。楓が言った通りだった。ほんの数分見ただけで、航にはそれがわかってしまったのだ。 船戸高剣道部員としての、浬の基礎打ちの一本目。その相手をできたことを、航はこの時、とても嬉しく思った。
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