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「メンッ、面だぁあああっ!」
「小手ぇぇええーーっ!」
間合いを詰めた市鷹が飛ぶように面を打つ。兄をうまく誘い込んだ将鷹は、ここぞとばかりにその出鼻を狙って小手を打った。しかし、僅かに鍔元だ。佐伯は一瞬白い旗を上げかけたが、すぐに手を下ろし、左右に振った。この技は無効、ということである。
「うわぁ……! 今惜しかったなぁ……、マサぁ……!」
上座に座って試合を眺めている織田が悔しそうに膝を叩いて言う。タイミングはバッチリだったが、狙った場所が少し逸れてしまったようだ。その直後、市鷹と将功は至近距離で激しく打ち合った。
「いつ見てもすごいな……」
隣で、航が呟く。航もまた、この二人の試合稽古を見るのを楽しみにしていたのかもしれない。特に毎度行われるこの打ち合いには目を奪われる。
瞬時に相手の隙をつき、空いている所を狙って打つ。つまりこれは、互いに連続技を出し続けながら、相手の繰り出す数々の技を防いでいるわけだ。それが数秒の間に一体何回繰り返されることか。浬には計り知れない。目にも止まらぬ速さで、二人の打ち合いは続いた。ところが――。
「……メーーーンッ! 面だぁぁぁあああ!」
一瞬の間があってから、市鷹の声と同時に、バクンッ、と鈍い音がした。市鷹は竹刀を高く掲げた状態で後方へ素早く下がり、将鷹から離れて残心を取る。引き面、という技だ。将鷹が慌てて市鷹を追う。
「面あり!」
しかし、市鷹の引き面は見事だった。赤い旗が上げられ、佐伯の声がした途端、将鷹は天を仰ぐ。悔しそうなその表情は、面金の間から覗いている目を見ただけで十分に伝わって来た。やられた、といった感じだろうか。静かに開始線へと戻っていく二人の様子を見ながら、織田は口角を上げ、「さすが」と言わんばかりに頷いていた。
さて、これは剣道ならではのルールであるが、有効打突の部分に当たっただけの技は、決して一本にはならない。一本にするには、強い打突の他に、しっかりとした気迫のある声と、残心と呼ばれる姿勢を取らなければならない。
残心とは、剣道だけではなく、武道全般に共通するもので、技を決めた後も心身ともに油断をしない姿勢を取ることを言う。
実戦では、たとえ相手が完全に戦闘力を失ったかのように見えても、それは擬態である可能性があり、油断した隙を突いて反撃されることが有り得る。完全なる勝利を得る為には、それを防がなければならない。相手と距離を取ったり、或いは気を抜かず、また体勢を崩さないことで、完全なる勝利へ導かなければならない。これが、残心である。
つまり、一本を取ったと思い込んで声をしっかり出さなかったり、簡単に竹刀を下ろし、相手に背を向けてしまった場合は、どんなにしっかり打った技でも残心が取れていないとされ、一本とは認められないわけだ。
「……二本目!」
「せぇやぁぁああああ!」
二本目が始まった。後一本取れば、市鷹の二本勝ち。このまま制限時間が来ても、一本勝ちになる。一方で将鷹はもう後がない。一本取ってやっと五分。取りに行かなければ、黒星だ。
その為、将鷹はさきほど以上に攻め込んでいた。隙を見せずに間合いを詰め、恐らくは何か作戦を練った上で、狙っているのだろう。その光景を、浬は夢中になって見つめていた。
しかし不意に、隣に座っている航に胴着の袖をくいくい、と引っ張られる。
「何? 航」
「マサ先輩が狙ってるの、きっと突きだぞ」
「え……っ」
突きとは、喉元を剣先で貫くように当てる技だ。外れた時の危険性が高い為、小、中学生までは、その技を使うことは禁止されている。また、突きは他の面、小手、胴に比べて、有効打突の面積が極めて狭い。一本にするのは非常に困難な技の一つである。
しかし確実に一本を取りにいきたいのに、そんな難しいことを選択する必要があるのだろうか。浬は首を傾げた。
「なんで?」
「イチ先輩はさ、もう一本取ってるだろ。ここから二本取りに行ってもいいけど、マサ先輩は一本取り返そうとしてガンガン攻めてくるもんだから、多少は守りに入る。しかも相手は自分の分身みたいな存在のマサ先輩だ。ここで必死になって二本目取りにいくよりも、一本勝ちで終わった方が安全に決まってる」
「確かに……。それで?」
「イチ先輩はマサ先輩の得意技が面だって知ってるから、それを予想してるはずだ。だからイチ先輩は間合い取りたがって後ろに下がる。そこを狙うんだよ」
航が言った通り、将鷹の得意技は面だ。彼の面打ちのスピードは市鷹よりも速かった。ならば当然のこと、市鷹は我が弟は一番自信のある武器を使ってくるはず、と考えるだろう。しかし――。
「でも、なんで突き?」
「イチ先輩は、間合いを取って下がった状態で攻め込まれたとき、首をほんの少し後ろに引く癖があるから。俺ならそこを狙う」
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