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僅かに失望しかけた時、再び織田の声が聞こえた。
「チカ! 胴!」
チカ、というのは佐伯のことだ。ふと目を向けると、織田は顎をしゃくり、左手を上げている。恐らくそれは「今のは胴ありにしろ、一本だ」という意味だった。
「ど、胴あり!」
佐伯は慌てて左手に持っている白旗を上げて声を張った。ホッと安堵しながら、浬は開始線に戻る。浬の前で、航は悔しそうに片目を瞑った。彼はゆっくりと開始線に戻ってきて、構える。しかし、次に目が合った時、彼の目は一層鋭さを増していた。
『また五分か――』
航がそう言った――気がした。浬は頬を緩める。『そうだね』と応えるように、静かにこく、と一度頷いて見せる。すると、航もほんの少しだけ、頬を緩めた。
『相変わらず、手強いな』
『そっちこそ』
そんなやり取りが頭の中に浮かぶ。足元から脳天へ何かが這い上がっていくように全身が粟立って、興奮が一気に増した。不思議だ。声なんか出していないのに、彼の言葉が聞こえてくるような気がする。
これだ――。この感じ。
試合中は基本的に、喋ってはいけない、というルールがある。だから、浬はもちろんのこと、航だって言葉を、声を、口にしているはずがないのだ。それはまるでテレパシーで話しているような感覚だった。互いに相手を知ろうとする気持ちが重なっているせいだろうか。
『行くよ……、航!』
『来い、浬!』
鋭く航を見つめれば、彼は負けじとこちらを見つめ返す。言葉はないが、やはり浬と航は気で通じ合い、思いを交わしている。それは確信に近かった。
静まり返った試合場で、航の息遣いが聞こえた。それに合わせて呼吸をしながら、佐伯の合図を待つ。
「……勝負!」
「ぃやぁさぁぁああ!」
「うるぁぁああああ!」
残り時間は恐らく一分を切っていた。彼と勝負ができるチャンスは既にそう多く残っていないはずだ。浬は気合いの声を出し、間合いをグッと詰めた。ほぼ同時に航もこちらへ攻め入って来る。
互いに一歩も譲らず、攻防を繰り返す。浬は技を仕掛けては打ち込むが、それは全て航に見抜かれ、避けられてしまった。
やがて「時間です!」と誰かが声を上げる。浬は航と目を合わせたまま、肩で大きく息をして、開始線に戻った。
「引き分け!」
佐伯の声が響く。二人の決着は、また今日もつかなかった。
その日の帰り道――。浬と航は自転車を漕いで帰る途中、ファストフード店へ寄った。これは念願叶っての寄り道だ。時々、三人でここへ寄ろうとすると、楓がたちまち面白くない顔をするので、寄り道もできなかったのだ。しかし今日、楓は用事があると言って、早々と支度をして一人で帰ってしまった。
「あいつ、今日元気なかったなー……」
ハンバーガーとポテト、それにドリンクのセットを頼んでおきながら、まだ少しも口をつけないで航はボーッとしている。どうやら楓が妙にしおらしかったのが気になるようだ。
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