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不意に、どこからか心ない声が聞こえた。それには少し苛立った。
この体育館にいる観戦客の全員が全員、この決勝戦を観たいわけではないかもしれない。中には仕方なく観ているだけの人間もいるだろう。先輩の応援には興味がないと思っていたり、どうせ結果なんかはじめからわかりきっているのだから、さっさと決着をつけて欲しい……と思っていたり。けれど。
頑張れ……! 頑張れよ、朝比奈……!
浬は心の中で必死に叫んだ。朝比奈と武田。彼らは今この瞬間、真剣に戦っている。きっとこの日のために来る日も来る日も、数多くの稽古を積んできたのだろう。つらいことにも耐えて、遊びたい気持ちを必死に我慢してきたはずだ。どちらにも同じだけ優勝する資格がある。可能性だってある。少なくとも、浬はそう思う。
しかし、どうだ。ここは今、前年度優勝者である武田のホーム試合のような雰囲気ではないか。試合を見守る観戦客の多くは、彼こそが優勝者にふさわしいと言わんばかりだ。こんなに大勢の観戦客に応援されている人間を相手に戦うのは楽じゃない。それでも朝比奈は、希望を失わずに果敢に攻めている。その姿に、浬の目は釘付けになっていた。
負けるな……!
と、その時だった。一度仕切り直した武田に一瞬の隙をついて、朝比奈が間合いを詰め、グッと攻め入った。重心がやや後方へ傾くような形になりながら、武田は半歩引く。そこをまた朝比奈が攻める。ふたりの距離がほんの少し、近づく。
ドクン、と心臓が高鳴った。朝比奈はこのチャンスを絶対に無駄にはできないはずだ。自分と同等か、それ以上の力を持っている相手と戦って、そう何度もチャンスというものは訪れるものではない。
また。朝比奈が間合いを詰める。竹刀の剣先がほんの少し触れる。攻防を図っていたふたりの動きが、一瞬止まる――。次の瞬間、朝比奈が飛んだ。
朝比奈、航――かぁ。
帰りの電車の中で、試合のパンフレットを眺めながら、浬は考えていた。朝比奈が間合いを詰めて飛んだ、あの一瞬で勝敗は決した。会場内で応援する人のほとんどが予想した通り、表彰台の一番高い場所には鴨川南中の武田が立つこととなったのだ。一本が決まった、その技は「相面」だった。
相面というのは、互いに同じタイミングで相手の面を打つ技だ。その打突が強く、スピードが速い方が当然ながら一本となる。あのとき、浬の目には朝比奈の方が少し速かったように見えた。
試合場の中に立っている三人の審判の内、副審の一人は赤い旗を上げていた。だが、あとの二人が上げたのは白い旗だったのだ。
「面あり!」
結果的に一本を取ったのは武田だった。主審が張りのある声で言った直後、会場内からは「おおぉーっ!」という声が一斉に上がり、割れんばかりの拍手が起こった。歓声も拍手も、そら見ろ、やっぱり今年も武田だった、と口々に言っているようにも聞こえた。
浬は湧きおこる歓声の中で、落胆していた。試合のすぐ近くで見ていた船戸二中の数名が落胆しているのと同じように。ただ浬は、朝比奈が負けた、ということと同時に、試合が終わってしまい、もう朝比奈の試合を見られない、という事にも落胆していた。
彼を、もっと見たいと思ったのだ。浬は朝比奈の打つ真っすぐな技の一つ、一つに強さを感じ、見入っていた。いや、ただ見入っていたわけではないかもしれない。どちらかと言えばたぶん、浬は魅せられていたのだ。
そういや、あのとき……。朝比奈に駆け寄った人がいたな……。
試合が終わった後、真っ先に朝比奈に駆け寄ったのは、ひとりの青年だった。年上だとすぐにわかったのは、朝比奈が「ハシバ先輩!」と声をかけたのが聞こえたからだ。
朝比奈とあの人、仲良さそうだった。同じ中学か――道場だったのかな……。
浬はその会話を聞こうとわざと近くに寄った。なぜそうしたのか理由は特にない。だが、朝比奈とその青年のやり取りがどうも気になってしまって、目を離せなくなったのだ。
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