1【出会いの春】~朝比奈航~

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「ちょっ……、先輩、苦しいですって……!」 「悪い、悪い! だってお前が褒めちぎるから!」 「俺は先輩の真似しただけですよ」  二人でけらけら笑いながら渡り廊下を歩く。だが、その先で航は足を止めた。ちょうど、胴着と袴姿に着替えた浬と楓が立っていて、こちらを見ていたのだ。 「あ――、浬!」 「航……」 「もう着替えたんだ? 早いな」  藍色の胴着と袴に身を包み、竹刀と手ぬぐいを持つその姿はどこからどう見ても経験者だった。その着こなしを見れば、浬がどれほど稽古を積んできたかは大体わかってしまう。胴着は色褪せていて使い込まれている風合いが出ているものの、それを長く、大切に使っているのだということは一目瞭然で、袴にもきちんと折り目がついている。それは普段、丁寧且つ、正しい畳み方で袴が仕舞われている証拠だ。  一方で浬の隣では、楓が不機嫌そうな顔を見せていた。もちろん、航に対して彼は何の挨拶もない。ただ今、向けられているのは、睨んでいると言ってもいいほどの、鋭い眼差しだけだ。  いや、俺お前に何もしてないんだけど……。っていうか先輩に挨拶しろよ。失礼な奴だな。  何やら今日は普段よりも増して楓の機嫌が悪そうだ。それの理由はわからない。もしかしたら、たった今、航を視界に入れただけで、彼は不機嫌になったのかもしれなかった。その隣で、浬がぺこり、と頭を下げる。 「ハシバ先輩、こ、こんにちは。はじめまして……」  それには驚きを隠せなかった。航は思わず「えっ」と声を上げて、隣にいる羽柴を見た。羽柴もまた、きょとんとして航を見ていた。 「えっと……、ハ、ハシバ先輩ですよね……?」 「そうです。どうも、はじめまして」 「浬……? 羽柴先輩のこと知ってんの?」  航がそう言うなり、浬は頬を真っ赤に染めてかぶりを振った。浬は今日、ここへは初めて来たはずだ。それなのに、羽柴が名乗り出る前に彼は羽柴の名前を呼んだ。妙だ。 「あっ、いや、あの……! 以前、大会で見かけたことがあるんです! 顔と、名前だけは覚えてました……」 「へぇ、そうなんだ。それは光栄だなぁ」  羽柴はそう言って照れくさそうに笑った。航も「なるほど」と納得する。すると、浬はすうっと息を吸い込んで、姿勢を正した。 「先輩! おれ、今日から剣道部に入部することになりました! 小笠原浬です! よろしくお願いします!」  張りのある声でそう言って、浬は頭を下げた。礼儀正しいことだ。さすがは剣友会会長の息子、と航は思わざるを得なかった。  剣道は武道であり、礼に始まり、礼に終わるスポーツである。それ故に、部活動でも道場でも、竹刀を握る前から生徒達は『礼儀』というものを徹底的に叩き込まれる。他のスポーツと少し違うのは、相手に勝っても負けても、礼儀を重んじる姿勢を示す為、「打たせて頂いた」「打って頂いた」という気持ちでいなければいけない、と教えられることだろうか。  例えば、一本を取った時のガッツポーズは剣道では禁止されているし、過度な応援も厳重注意をされる場合がある。剣道とはそれほど、礼儀を重んじるスポーツなのだ。  しかし、浬があまりにいつまでも頭を下げているので、航の隣で、羽柴はくすくす笑っていた。
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