死ぬまでにやりたいこと

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「あなた! 今の曲は何です?! この天才の私でも初めて聞く曲です! なんという衝撃! まるで悪魔のような、いや、神の怒りのようにとてつもない速度で渦巻く旋律! ああ、あなたに聞きたいことが山ほどあるのです!」  腕を掴んできた男性は、一方的にそうまくしたてると、俺の返事も聞かずにどこかへと歩き始めた。顔を見てもすぐにはピンと来なかったが、彼に道を開ける人々からは「アマデウスだ、帰って来てたんだな!」という声が聞こえていた。  アマデウスと言えば、『W. A. モーツァルト』だ。普段は、知らないやつに絶対について行かないが、もし彼が本当にあのモーツァルトなら……。これが夢でも何でもいい。モーツァルトと関わるチャンスなんて、これっきりかもしれない。俺はそう自分に言い聞かせ、大人しく彼について行った。  俺を連れて行く彼に頼み込み、途中で屋台に寄って何とかお腹を満たした後、再度引きずられるようにして向かった先は、フランスで言うところのアパートような建物の一室だった。  殺風景な室内には、部屋の真ん中にクラヴィーアというピアノの前身の楽器が置かれ、その周りには書きかけなのだろうか、楽譜のようなものが散乱している。 「どうぞ、ゆっくりしてください。今は私しかいないので、大したもてなしもできませんが……。 いや、そんなことより、さっきの曲をもう一度よく聴かせてください! 今から楽譜に書き取りますから!」 「わかりました、演奏します、ちゃんとやりますから……少し離れてください。  あと、私は雪村海斗と言います。あなたは……もしかして、あのウォルフガング・アマデウス・モーツァルトですか?」  俺は目を血走らせながら迫ってくる、同じくらいの年齢のように見えなくもない男性を押しのけ、やっとの思いで尋ねた。すると彼は思い出したような顔をしながら、 「そういえば、自己紹介もしていませんでしたね。これは失礼。いかにも、この私がかの天才、アマデウスですよ」  その後、俺はモーツァルトが良いと言うまで、何度も『熊蜂の飛行』を吹いた。こんな難曲を何回も吹くのは、ソロコンクール以来かもしれない。腹は満たされていたが、今日は丸一日オーケストラ部での練習を終えた後だったのだ。いくら憧れのモーツァルトの頼みでも、いい加減疲れてくる。  すると、俺が音を上げそうになったところでようやく楽譜を書き取り終えたのか、モーツァルトが満足そうに話しかけてきた。 「いやあ、海斗。これはすごい楽譜ですねえ! この速度といい、この音の配置に、『フラッター』でしたか、面白い演奏方法です! ああ、やはり音楽は常に進化している! 海斗の国の音楽は面白いですねえ、ぜひ行ってみたい!」  いやいや、今の日本に来てもこの曲は無いのだ。俺は、海の向こうのとてもとても遠い国だと話し、何とか諦めてもらった。するとモーツァルトが、「俺に普段通りに話していいから」と言いつつ、今度は俺にいくつも音楽に関する質問をしては、とても楽しそうにああでもない、こうでもないと呟いていた。  何度目かの質問に答えた後、ふと思い出したかのように、モーツァルトが俺に何か演奏のお礼がしたいと言い出した。 「お礼? なんでもいいんだったら……アマデウスの『フルート協奏曲第2番』を俺が吹くから、アマデウスがオーケストラの部分をこれで伴奏してくれないか?」  俺はそう言いながら、アマデウスがその椅子に座っているクラヴィーアを指さす。 「フルート協奏曲第2番? 伴奏なんかでいいなら喜んでやりますよ、その変わったフルートの音色ももっと聴いておきたいですし……でも、別に第2番じゃなくても……」 「ああ、あれがオーボエ協奏曲をちょっといじっただけっていうのは知ってるから、別にそこは気にしなくていいよ。俺は、その曲が純粋に好きなだけだから」 「なっ……!」  モーツァルトは、一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに「知ってるなら、まあいいか」とでも言うような表情になり、黙ってクラヴィーアでオーケストラ部分を弾き始めた。  W. A. モーツァルト作曲『フルート協奏曲第2番』は、その曲が書かれる半年以上前に作られた『オーボエ協奏曲ハ長調』をニ長調に変え、ソロパートを少し変えただけであとはほぼ同じという、モーツァルトの曲の中でも異例中の異例と言える曲だ。  手抜きだなんだと言われたりもしているが、その割にはこの当時のフルートの構造面や技術面に配慮し、細かい修正を加えたりもしている。だから、実際のところはよくわかっていない。  そんな曰く付きの曲だが、俺にとってはこれが素晴らしいフルート協奏曲であり、『死ぬまでにモーツァルトと共演したい』曲だった。 「これは、夢か? それとも現実? 夢で腹とか減るのかな? いや、もう何でもいいや。モーツァルトと共演できればそれでいい」  俺は、クラヴィーアをまるでオーケストラを連想させるような響きで鳴らすモーツァルトに感動しながら、待っている間に楽器を温めていた。 成り行きでここまで来てしまい、頼んだらあっさりと共演できることになってしまったが……俺は憧れのモーツァルトを目の前に、自分の状況がいまいち信じられず、気づいたらぽつりと呟いていた。 「海斗、もうすぐ出番ですよ。私は天才です。その私に伴奏をさせるのですから、先ほどのような天才的な演奏でなければ怒りますよ」  俺の呟きを聞き咎めたモーツァルトが、こちらを見もせずに俺に釘を刺してくる。お礼とは言え、演奏するならば集中しろということだろう。当然だ。理由はわからないが、やっと手に入れた、二度とないかもしれないチャンスなのだ。俺だって、全力でやり切って見せる。 オーケストラがユニゾンで降りてきたところで、ようやく俺の出番だ。そのユニゾンからバトンを受け取るようにして、最初の一音からのトリルの装飾音を踏み台に、俺は空を目がけるようにしてニ長調の階段を駆け上がっていく。そして、俺のD()伸ばしを後ろから支えるように、モーツァルトが奏でるオーケストラの波がやってくる。 この時代は、まだブルボン王朝が衰退する前の栄華を保っていた、最後の時代だ。モーツァルトのフルート協奏曲が奏でる、まるで王宮や貴族の華やかなサロンを彷彿とさせるような旋律。明るく澄み切った、モーツァルトらしい天真爛漫な響き。 こんな純粋な美しさと底抜けの明るさを兼ね備えた音楽は、今も昔も、彼にしか作れない。そして、この曲をこんな風に演奏できるのも、きっと本人だけだ。  俺は、今までずっと一人で練習してきたフルート協奏曲を必死で吹き続けた。その俺の旋律を、彼は時に引き立たせ、時に追い立てるようにしながらも決してこちらを喰いはしない。きっとモーツァルトはこんな風にこの曲を演奏してほしかったのだろう、とある種の感慨に耽りつつ、俺はモーツァルトとの共演に酔いしれた。 「ありがとう、アマデウス。俺の夢が叶ったよ……」 「この天才にかかれば、この程度何でもありませんよ。ん? 海斗、どうしたのです?」  俺の言葉に偉そうに返すモーツァルトが、俺の異変に気付き、眉をぐっと顰めた。俺が自分の身体を見ると、段々薄くなってきている。俺は突然のことに状況が呑み込めなかったが、『時間がない』ことを本能的に察した。 「アマデウス、時間みたいだ。俺は……本当は、300年後の未来から来たんだ。アマデウスに憧れてて、いつか共演したいと願っていたんだ。 でも、もう帰らないといけないんだと思う。これ、たくさんもらったけど俺には使えないから、アマデウスがもらってくれ」  俺は、帽子にずっしりと入った硬貨の山を、急なことに驚くアマデウスに押し付けた。すると彼ははっと我に返り、さっき書き取っていた楽譜に自分のサインを入れ、 「ならば、これはあなたにあげましょう。私はこの曲を覚えていますから、いつでも書けます。それに、この天才の名の入ったものなら、きっとあなたの役に立つでしょうからね!」  どんどん薄くなっていく俺の手に、彼は羊皮紙に書いた楽譜を握らせながら言ってきた。俺はお礼を言おうと口を開きかけたが、その前に目の前が真っ白な光に包まれた。  目が覚めると、俺は自分の部屋に立っていた。夜なのにカーテンも閉めず、電気もつけていない部屋に満月の月明かりが差し込んできている。    しばし呆然と立ちすくんでいた俺だったが、ポケットに入れていたスマホが突然震えたことでようやく意識が現実に戻って来た。スマホを取り出すと、翔真から100件以上のラインが入っており、どれも「今どこにいるんだ」という内容だった。  俺はすぐに返信しようと思ったが、ふと手に持っている分厚い紙が目に入った。さっきモーツァルトにもらった楽譜だ。さっきまでのことは、夢のようで、夢ではなかった。 「やっぱり……あれは、本当にモーツァルトだったんだ……」  翔真になんて説明しようか頭を悩ませたが、文字で説明するのを諦め、翔真に電話をかける。そのコール音を聞きながら、 「なんでこんなことになったのか……考えてもわかんないや。でも、諦めなくてよかった。練習しててよかった。チャンスはいつ来るか、どこにあるか、わかったもんじゃないな。翔真も素直になればいいのに」  俺は憧れのアマデウスにもらった楽譜を大事に持ちながら、誰にも聞こえない独り言をそっと呟いた。
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