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よく噛んで食べましょう
「天、その……そんなにくっつくなって」
「どうして?」
「俺は包丁使ってるの! あぶないだろう?」
「大丈夫だって」
「馬鹿、だったらおまえがやれよ!」
俺はギブアップしてナイフを置く。真後ろからにゅっと手が伸び、カッティングボードの上の板チョコのかけらをつまむ。大まかに割られ、半分ほど刻まれた状態だ。
「チョコムース食べたいっていってたのおまえだろう。首に息……かけな――」
「こう?」
背後から抱きすくめられ、うなじに唇が押しつけられる。体の全細胞がひくりと動くような気がする。自動的に半開きになった唇に何かのかけらが押しこまれる。甘くてほろ苦く、口腔の熱で溶ける。チョコレート。
「このチョコ、気に入ったんだろう? あんなに買ってきて」
文句をいいたいのに舌はチョコのかけらのせいでうまく動かない。たしかに俺は、ヨーロッパ旅行の最後に知った高級板チョコを気に入って、空港で自分用と土産用にかなりの量を買いこんだ。きっかけはとある街の散策中、たまたま行き会った広場のマーケットで味見したからで、何の気なしに食べたのだが、これまでチョコレートというものにごく普通の興味しか持たなかった俺をびっくりさせるほど美味しかったのである。苦みと甘味、コクと香りのバランスひとつで、この黒い塊はこんなにも印象が変わるものなのか。
うなじにチリっと痛みが走り、しびれるような感覚がつま先へ流れる。噛まれた痛みと区別のつかない甘美な圧力で背中と腰がふるえ、鼓動が早くなる。舌が俺の首をなぞり、また歯が立てられる。がくがくする両足はべつの体温にはさまれて支えられ、突然ふわっと体がもちあがるような錯覚に陥る。
「作るの、俺も手伝うから」
そんなことをささやきながら天は俺の耳を齧る。耳たぶをしゃぶられて、俺は切れ切れの言葉を出すことしかできない。
「……馬鹿……俺を食うなって……」
いつのまにか正面を向かされて、重なった唇から舌が入りこむ。自分が感じているのがチョコレートの甘味なのか、天の唾液なのか、俺にはわからなくなる。突然昔の記憶がよみがえる。暗闇の中で口に押しこまれた板チョコと、覆いかぶさってくる天の匂い。苦い記憶だったはずなのに、現実に俺のまえにいる存在の甘さに溶けていく。
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