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勝者の杯
どうしてこんなに落ち着かないんだろう。
俺は膝をもぞもぞ動かし、首をのばして座敷の向こうをみる。佐井家の畳は最近全部替えたらしく、独特の青い匂いがふわっと香る。視界の端にふたつの人影がある。逆光になっているから、影絵のように黒くみえる。どちらの影もさっきからほとんど動かない。ますます影絵、あるいは切り絵じみている。
「ずいぶん長いね」
思わずつぶやくと「天藍さんも碁は強いの?」と佐枝の母がたずねた。
俺は首をふる。
「チェスはやるの知ってるけど、他はわからない。俺はああいうゲーム、だいたい苦手だし」
「おじい様があの調子ならきっと強いのよ」母はそういって立ち上がった。
「こんなに離れていないで、近くで見ればいいじゃない」
「いや……やめとく」
「どうして?」
「その……」
俺は答えあぐね、口ごもる。緊張したアルファから漂う匂いについてベータの母に説明するのは難しい。おまけに藤野谷が対戦しているのは俺の実の祖父、佐井家最後の当主である銀星だ。ただの遊びにすぎないとはいえ、祖父と藤野谷が対戦していると考えるだけでこっちも緊張するなんて、いちいち話すのもためらわれる。
というわけで俺は話を変えた。
「父さんは?」
「台所で何か作ってるわよ」
「ちょっと見てくる」
「ほんとにいいの?」
「いいって」
廊下に出たとたん座敷に漂う緊張感は背後に去った。木の床はよく磨かれて、ぼんやりした光を反射している。踏むたびに木のきしむ音が鳴り、うまく形容できないが俺の好きな匂いが漂っていた。床の間の隅に置かれた香や新しい畳や古い柱、襖、いろいろなものの匂いが混ざりあい、この家の匂いになっているのだ。
でも台所からは別の匂いがする。俺は十センチほど開いた戸に手をかけ、中をのぞきこむようにしながらそっと開けた。ガラスの嵌った戸は重く、桟をなめらかに滑らずにガチャガチャと不格好な音を立てる。こげ茶色の木のテーブルの向こうでエプロンをかけた父がこちらに背を向けていた。片手に菜箸を持ち、奥のコンロに向かっているのだ。バター、肉の焼ける香り、それにアルコールの香り。
「父さん、何作ってるの?」
斜めうしろから俺はたずねた。父は肉をひっくり返しながらいった。
「トリだ。赤ワイン煮込み」
「それ、峡が作ったの食べたことあるよ」
「教えたからな」
そうだったのか。俺は父の短い返事になぜかびっくりしていた。佐枝の父は料理が好きで、峡も料理が好きなのだから、驚くことでもないのだが。
父は菜箸を置くとフライパンの横に鍋をかけた。まな板の上には刻んだニンジンとタマネギ、ベーコンが載っている。父は鍋に野菜をほうりこみ、炒めはじめる。
「零、そこのワイン取ってくれ」
そこ、というのはテーブルの上だ。緑色の瓶のコルクはすでに抜かれていた。
「ちょっと飲んでもいい?」
なんとなくたずねたのだが、返事はにべもない。
「あとでな」
「全部は使わないんだろう?」
父は俺の質問を無視した。
「天藍君はどうした」
逆に聞かれたので俺はしぶしぶ答える。
「じいちゃんと碁を打ってる」
「見ていなくていいのか?」
「母さんと同じこというね。でも、負けた方にどんな顔をすればいいのさ」
「零はどっちが勝っても嬉しいだろう?」
たしかにその通りではある。だが――
俺は首をひねりながらワインのコルク栓をひねった。手近にあるコップに勝手に注ぎ、鼻先に近づける。良い香りがした。
「全部飲むなよ」と父が釘をさす。
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