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春の小石
ギャラリー・ルクスは展示の端境期だった。ロビーと事務所は開いているが、展示室は空だ。それでも併設のCAFE NUITの席は半分ほど埋まっていた。この店は昼間もオレンジ色の明かりに照らされて、夜のような雰囲気に包まれている。壁際には読書灯が設置された席があり、集中して本を読むために来る人もいるだろう。
俺はホールの隅のテーブルに座り、鞄から取り出した書類(ブライダルコーディネーターから渡されたハンドブックと、今朝藤野谷から渡された服飾デザイナーの資料と、招待客候補リスト)を三角形になるように配置した。注文したコーヒーは三角形の真ん中に置いてある。もし今地震が起きたら、三つの書類は平等にコーヒー色に染まることになる。
ブライダル関係の仕事は経験がある。しかし自分の行事となると大違いだった。藤野谷家と藤野谷本人は俺の負担を減らすために必要なことはいくらでも手配すると保証したが、正直な話、いまの俺はいささか参っている。べつにマリッジブルーなんてものじゃない。単なる「考えたくない病」と「やりたくない病」だ。
藤野谷はまだ来ない。夕方までにふたりで決めなくてはならないことがあり、藤野谷は仕事の途中で時間をあけるというから、このカフェで相談することにしたのだ。
今はマスターの姿も見えない。ランチタイムは終わってしまい、メニューも下げられている。ギャラリーと同時に開店したCAFE NUITのメニューはコーヒーとデザート系が中心で、数量限定のランチに俺はありつけたためしがない。
この店の前身で、以前住んでいた家にほどちかい郊外のカフェ・キノネではランチよりも朝食をとることが多かった。キノネはこの店とは正反対の明るい雰囲気で、開放的な広い中庭に面していた。いまも営業はしているが、マスターがこっちの店に来てからは業態も多少変わったようだ。
以前くらしていた家を完全に引き払ってまだ一年にもならないのに、俺は一度もあの郊外へ戻っていない。キノネの中庭には大きなユリノキの木が立ち、浅い切り込みのある葉は秋になるとうつくしく紅葉する。CAFE NUITの前にある公園にも木はたくさん植えられているが、ユリノキはなかった。冬になって葉がおちたユリノキには野生のチューリップのような形の実がつく。葉のない枝ぶりも俺は好きだった。ランチや朝食を食べながら、庭にそびえるユリノキをガラス越しにぼんやり眺めていた。
今頃の季節なら、ランチにはにんにくとバターを効かせたじゃがいもの料理がよく出されていたはずだ。このカフェでも出しているのだろうか。まだ土がついた小粒のじゃがいもは冷たい水の中でしっかり洗い、薄い皮は布巾でくるんで、こすり取るようにして剥く。新じゃがは佐枝の母が「たくさん獲れた時」に限って送ってくる。母がくれる野菜は不揃いで、大きすぎたり小さすぎたりするものがまじっている。子供のころは庭の畑でじゃがいもを掘ったこともある。泥つきの小さすぎるじゃがいもは時々俺の指からこぼれおち、土のなかの小石に混じって、どこへ行ったかわからなくなることもあって……
俺はテーブルに書類を並べたまま、関係ないことを連想ゲームのように頭に浮かべていた。おかげで藤野谷が声をかけるまでまったく彼の存在に気づかなかった。
「サエ、遅くなった」
「あ――天か。びっくりした」
「ごめん。集中してた?」
「いや。逆だ。……何も考えてない」
藤野谷は怪訝な眼つきでコーヒーを注文する。俺は三角形に並べた書類をめくり、さて何を決めなくてはならないんだっけ……と思うが、集中できない。藤野谷はてきぱきと「今日中にこれをああしないといけないが、俺は……」などと説明しているのに、俺の頭の中には野菜と土にまみれた小石が浮かんでいるのだ。
「サエ?」
「ああ、ごめん。ちょっとぼうっとしてて」
「疲れてる?」
「そんなことない。何だかこう――春のせいだと思う」
「春?」
「ぼわぼわっとするんだ。頭が」
藤野谷の手のひらが前からのびてきたと思うと、俺の頭をぽんぽんと撫でた。
「ほら、これで治った」
「天、あのな」
「はやく終わらせて公園を散歩するぞ」
「――わかったよ」
俺は苦笑して書類に視線をもどす。春が行ってしまう前に片付けるべきことは、まだまだたくさん残っている。
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