おいしい夢

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おいしい夢

 夢の中で犬と遊んでいた。大きな白い犬だった。俺は公園のような広い場所にいる。犬は尻尾をふり、俺の足に鼻づらを押しつける。撫でようと手をのばしたとたん、先手を打つように俺の指をぺろぺろ舐めはじめた。舌の感触に俺は笑い声をあげ、押しつけられる犬の体重に負けてついに芝生に尻をつく。 「ははは……くすぐったいって……」  肌は暖かい感触におおわれ、あたりは心安らぐ匂いがする。犬を抱きしめ、なめらかな感触を手のひらに感じ、穏やかな光に包まれるような気がして――  眼をあけると藤野谷の顔がすぐ上にあった。俺の肩の横に手をついて見下ろしている。 「おはよう、サエ」 「あ――おはよう……」  犬が藤野谷にすりかわったような錯覚をおぼえて、俺は何度もまばたきをした。 「天、犬が――」 「犬?」 「あ……たぶん夢なんだけど」 「だろうな」 「俺なんかいってた?」 「いや」  藤野谷は立ち上がった。ワイシャツのボタンは首元まで止まっていて、片手にネクタイを持っている。俺はあわてて時計をみる。 「寝坊した?」 「サエは寝ていていい。昨日も遅かったんだろう」 「でも」 「俺はもう出るから」  藤野谷はさっさとタイを締め、背広に袖を通しながら寝室を出ていった。俺はあわてて立ち上がり、先をいそぐ背中を追う。藤野谷は玄関で靴を履いてからやっと俺の方をふりむき、アトリエの扉を指さした。 「サエの方は進んだ?」 「ああ。順調」  俺は答えながら藤野谷に腕をまわす。藤野谷はすこしかがみ、俺たちは軽く唇をあわせる。いつものキス。毎朝のキスだ。でも? 「天、おまえ――苛ついてる?」  俺は思わず口に出した。藤野谷はまばたきをした。 「いいや?」 「なら……いいけど」 「今日は遅くなる。食事は待たなくていい」 「待つよ。俺もどうせ遅くまでやってる」  藤野谷はイエスともノーともつかない様子でうなずいただけだった。  キッチンカウンターに置かれたカップには冷めかけたコーヒーが半分ほど残っていた。思い出してモバイルを探すと、峡からメッセージが入っている。彼はいま祖父の銀星と一緒に、藤野谷の伯父の藍閃(ランセン)を訪ねて海外へ行っている。俺の両親、葉月と空良がたどったルートを旅行しているのだ。  俺も誘われたのだが、迷った末にあきらめた。大きな理由はギャラリー・ルクスの冬の企画展の準備をしていたからで、藤野谷と就寝時間がずれるのもこのせいだった。それだけでなく、制作に意識が向きすぎた俺はこのごろあまり藤野谷に注意を向けていないかもしれない。  オメガは匂いに敏感だ。朝のキスで伝わってきたのは、苛立ちというよりある種の――不機嫌だった。俺は夢に現れた犬の感触を思い出した。夢だと思っていたあれは、もしかしたら……  とはいえいったん制作をはじめれば俺が作業にのめりこむのはいまにはじまったことではなく、それは藤野谷もよく知っている。だからこそ何もいわないのだろうが、匂いは本人の意識と無関係にあらわれるものだ。  俺はコーヒーを飲みながらすこし考えてみたが、結局棚上げにした。とにかく今は作品に集中するときだ。  その晩藤野谷が帰ってきたのは予告通り遅かった。俺は軽い夕食と風呂をすませてから鍋に骨付きの鶏肉とタマネギを仕込み、またアトリエにこもっていた。車の音が聞こえたので出ていくと、藤野谷は玄関先で鼻をひくひくさせている。 「おかえり。どうした?」 「いい匂いだ」そういった藤野谷からは疲労と汗の匂いがした。 「トリが出来上がったところだ。食事は? 軽く食べるか?」 「食べたい」  テーブルに皿を出し、飲み物を探して冷蔵庫をあけたときモバイルが鳴った。峡からのメッセージだった。続いて届いた写真は見慣れない大皿料理とビールが並ぶ食卓だ。  葉月と空良も同じような食卓についていたのだろうか。この国を出てさまよっていたふたりはいったいどんなものを食べていたのだろう。いつか藤野谷と一緒に彼らのあとをたどってみたい。ふとそんなことを思った。  藤野谷はオニオンソースで食べる鶏肉が気に入ったようだ。彼が風呂をつかっているあいだに俺はアトリエを片付け、先に寝室のシーツを占領した。 「珍しいな」  戻ってきた藤野谷が俺を見下ろしてそんなことをいう。着ているものこそちがうが、朝と同じ構図だ。 「サエ、どうして笑ってる?」 「今朝、犬の夢をみてさ」 「ああ、そういえば……そんなこといってたな。寝ぼけてると思ってた」  マットレスの上に藤野谷の重みがかかる。俺はくすくす笑いながら彼の首に腕をまわす。やっぱりそうだ。あの犬。 「白くて大きな犬だった」 「へえ」 「撫でようとしたら俺を舐めるんだ」  藤野谷はにやっと笑った。「こう?」  耳の下に吐息を感じた。舌が首筋をぬるりと這い、するとなぜか腰のあたりに波立つような感覚が立つ。 「ん……」  肌をなぞる藤野谷の声は俺の首筋から肩の骨へと下がっていく。 「サエ、実は俺を犬だと思ってる?」 「そんなことないよ」 「夢をみたんだろう」 「夢に――文句いわれても……あっ――」  藤野谷の囁きはもっと下へと降りていく。のしかかる重みと体温と匂い、藤野谷の体のあらゆる要素に俺の体は勝手に応えようとする。悦びを期待して皮膚の奥がざわめき、恥ずかしいほど熱い吐息がこぼれ出る。
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