スーパームーンの夜に

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 そいつの息をのむ音が、夜の静寂に響き渡った。 「……あなたは、なにを……?」 「だってそうだろ」  揺れる碧に、俺は子どもを叱るような口調で言う。 「本当に死にたいと思ってんなら、マリさんが亡くなってすぐに後を追ったはずだ。あんたら吸血鬼は太陽の光に当たれば死ぬんだろ? 俺たち人間が自殺するよりよっぽど簡単だ。なのにあんたは、もう一ヶ月も苦しみの中で生き続けてる。愛した人を失って、飲まなきゃならない血が飲めなくて……すげぇつらいはずなのに」  とんちんかんなことは言っていないと思う。現に、そいつの顔には図星の色が浮かんでいた。 「なにか理由があるんだろ? プライベートなことだし、詳しくは訊かないけどさ。なんにしたって、死ねない理由があるんだったら、生き急いじゃまずいだろ」  純粋に、死んでほしくなかった。  マリさんはきっと、大きな愛と幸せに包まれて亡くなったのだろう。なのに、こいつだけが絶望の中で命を落とすなんて、俺にはどうしても許せなかった。  スーツの上着を乱暴に脱ぎ捨て、手早くシャツの袖を(まく)る。ごくりと唾をのみ込んで、ぎゅっと右の拳を握った。  ためらいながらもありったけの勇気を振り絞った俺は、そいつの前に自らの右腕を差し出した。 「俺の血、飲んでいいから」  見開かれた碧眼をまっすぐに見て、俺は真剣な眼差しをそいつに注いだ。 「だから、死ぬな」  口を半開きにし、そいつは驚きに満ちた顔で俺をじっと見つめてくる。  しばらくしてから、そいつはふわりと笑った。 「マリが、死に際に言いました」  まばゆい月光の照らし出す青白い頬に、少しだけ赤みが挿した。 「〝人間はね、いつか生まれ変わるものなのよ。だから、あなたは生きて。わたしは必ず生まれ変わって、この世界でもう一度、あなたのことを見つけるわ〟……その一言が、頭から離れないのです」  ――あなたは生きて、か。  極上の力強さが込められたマリさんの言葉に、思わず笑みがこぼれてしまう。 「いいじゃん、ロマンチックで」 「……バカにしていますね」 「どこがだよ! してねぇだろ!」  胡乱(うろん)な目を向けてくるそいつに、俺は精一杯反論する。 「待っててやれよ、この世界で」  相好を崩して、俺は言った。 「ほら、〝信じる者は救われる〟って言うだろ? マリさんがこの世に生まれ変わってきた時、あんたがいなきゃ意味ねぇじゃん。マリさんの気持ちを無駄にすんな。信じてやれよ。俺も信じるからさ……あんたたちはいつか必ず、もう一度結ばれる日が来る」  永遠の命なんてものを、俺たち人間は持ち得ない。  けれど、たとえば仏教の教えでは、輪廻転生という概念がある。前世の記憶を研究している大学があるという話も聞くし、ひょっとするとこの世界には、本当に生まれ変わりのシステムが存在するのかもしれない。  誰かに信じさせる必要はない。  当事者同士が強く信じるなら、願いはきっと叶えられる。  その手助けができるのなら、俺は喜んで信じよう。  どれだけバカにされようと、神に願い続けよう。  彼らは必ず、幸せな再会の日を迎えられるはずだと。 「優しいですね、あなたは」  端正な顔で美しく笑って、そいつはふわりと俺に問う。 「お名前は?」 「俺? 蓮井(はすい)だよ。蓮井勇希(ゆうき)」 「ユウキ」  下の名前を繰り返すと、俺の目をまっすぐに見た。 「どうしても許せませんか、私が死ぬことを」 「当たり前だろ! 目の前で人に死なれていい気分のするヤツなんていねぇよ、普通」 「私は人ではありませんよ」 「うるせぇ! 無駄に揚げ足取るなッ」  ははは、と、この時はじめてそいつは声を上げて笑った。心の底からあふれる笑顔に、俺もつられて笑い出す。 「ところで、ユウキ」 「あん?」 「なぜ、腕なのですか?」 「は?」 「普通はここでしょう」  言いながら、そいつは自らの首筋を指さした。  そうか、言われてみれば。吸血鬼の噛みつく場所の定番っつったら首筋だ。サスペンスドラマなんかで、遺体の首に二箇所の噛み痕みたいな傷が残されていると、やれ吸血鬼の仕業だって誰かが騒ぎ出すんだよな。 「……本当に、よろしいのですか」  おずおずと、そいつは改めて俺にお伺いを立ててくる。 「あぁ、いいよ。コップ一杯分でいいんだろ? 献血とかしたことねぇけど、たぶん死ぬってことはないだろうし」 「……シャツは確実に汚れます」 「サラリーマンなめんじゃねぇよ。何枚白シャツ持ってると思ってんだ」  ニカッと笑ってやると、ようやくそいつは覚悟を決めてくれたようだ。  次の瞬間――エメラルドブルーだった瞳が、燃えるような赤に変わった。 「安心してください」  息をのむ俺に、そいつはどこまでも優しく言った。 「痛みを感じるのは、噛みついたその一瞬だけです」  動く唇の隙間から、二本の牙が見えている。無意識のうちに、俺は生唾をのみ込んでいた。 「……めっちゃ痛い?」 「注射と同じです。感じ方は人それぞれでしょう」  そうなのか。どちらかというと注射は苦手なんだが、大丈夫だろうか。  これ以上あれこれ聞くと決意が揺らぎそうだったので、俺は黙ってシャツのボタンを外し、右手で襟を押さえて左の首筋を剥き出しにする。すると、目の前の吸血鬼(ヴァンパイア)はフードを取り去り、煌めく銀髪を揺らしながら俺の首に正面から左腕を巻き付けた。 「目を(つむ)って、楽にして」  耳もとで、そいつはそっとささやいて。 「すぐに終わります」  なめらかな動作で、俺の首筋に噛みついた。
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