2.尚親と桔梗

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2.尚親と桔梗

「それにしても、美しくなったのう。しづ」  深緑色の渋い着物を着て上座に座る男は、脇息にもたれて顎髭を擦りながら満足そうに頷いていた。しづと呼ばれた薄紫色の着物の彼女は、その男の前でただただ深々と頭を下げている。 「兄上、しづももう今年で十六。花ならばもう咲き誇っていてもおかしくない年頃でございますよ」  しづの横に座る母親のつるが、実の兄であるその男に嫌味を含めてそう言った。この時代、武家の娘が十六でまだ嫁いでいないのは、行き遅れと言われてもおかしくはない。彼女がそうなったのも、半分は加野家当主であるこの伯父に婚姻を止められていたからであった。 「そうかそうか。実はお主らを呼んだのもその事でな」 「と、言いますと!?」 「しづの輿入れの話だ」  つるは思わず「まぁっ!!」と歓喜の声を上げた。一方しづは目を丸くはしたものの、さして母親ほどの喜びは見せない。 「ここからの話は内密にしてもらいたいのだが……」 「心得ました」  男はつるとしづを手招きし、傍に呼び寄せると小声で話し始めた。この部屋には三人しかいないが、屋敷には家来や下働きの者が何人かいる。信用の置けぬ者を雇わぬよう慎重を期してはいるが、念には念を入れるのが伯父の有能なところでもあった。 「上地家に尚親様が戻られる」 「尚親様!? まさか、尚盛(ひさもり)様のご嫡男のですか?」 「そうだ」  思いがけない事実に、つるは口元を隠してキョロキョロと周りを確認した。もともと男の命で使用人達はこの部屋から遠ざけられている。故に部屋の周りには人気がない。 「しかし尚親様は七年前、賊に討たれて亡くなられたのでは? しかし今、『戻られる』とおっしゃいましたか? ではどこかで生き延びておられたので?」 「そうだ。上地からずっと北、奥寺の地で(かくま)われておったのだ」 「奥寺……そこは武田の領地では?」 「うむ」  男は眉間に皺を寄せ、腕を組んで黙り込んだ。つるは寝耳に水な上、予想以上の身に余る情報を聞いてしまい、軽く困惑している。一方しづはというと、母の狼狽えた様子も伯父の黙り込んだ様子もよくわからないといった表情で、彼らを交互に見つめていた。  そんな中、最初に口火を切ったのは意外にもしづであった。 「通孝(みちたか)様は……」 「おお、しづは通孝を案じておったか! 無論、通孝も健在じゃ。尚親様と共に上地へ戻って参る」 「まぁ! それはようございました。てっきり私は通孝殿も尚親様と一緒に亡くなったものと……」  つるはほろりと涙を見せた。何故なら通孝は、兄である加野通好(かのみちよし)の息子であり、つるにとっても甥にあたるからだ。涙をにじませた通好は、つるを優しく抱き締める。 「すまなんだ。あの当時すぐに生死の判別はついておったのだが、口外が(はばから)れた故、今まで黙っておったのだ」 「いいのです。それは仕方のないこと。通孝殿のご息災、何よりでございました」 「かたじけない」 「では、しづの輿入れの相手というのはやはり、通孝殿でございましょうか」  母の言葉にしづはゴクリと唾を飲み込む。上地の嫡男である尚親が上地谷へ戻って来ると聞き、真っ先に通孝の安否を気にしたのも偶然ではない。通孝とは従兄妹(いとこ)同士の間柄で、幼い頃からそれとなく「しづは将来、通孝殿に嫁ぐだろう」と、母から吹き込まれていたからだった。
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