トルコ青釉

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トルコ青釉

 望月 宙(もちづき そら)は頭を抱えていた。  市民サークルの陶芸教室。いまは宙ひとりが、この広い部屋のなかにいた。  別室には、中型の電気窯が二つある。  教室が開始された時から買い足された釉薬は、ざっと四十種類だろう。  およそ土練りには向かない表面が塗装された大きなテーブルが四つ。  陶芸の作業台ではない。この部屋は会議室としても使われるのだ。そんな日は年に一日もあればいいのだが。  陶芸教室は月に二度しかないが、室料を払えば個人でも使用できる。部屋も窯も遊ばせておくだけでは意味がない。  とはいえ今年度の教室の参加者は宙を入れても五人。窯は今日も空っぽのまま放置されている。  宙の手には一片の陶器の欠片がある。  十数年続いているこのサークルで、過去につくられた色見本である。  白い陶土にマットな青い釉薬。裏にはトルコ青釉と書かれ、釉薬バケツの番号がふられていた。  33番。バケツにもトルコ青釉と書かれている。  灰色の釉薬。もうかなり少なくなっていた。  釉薬は混ぜてから時間が経つと水と成分が分離する。バケツの底に手を突っ込むとザラリとした沈殿物に触れた。 「おかしい」 「なんでよ、もう」  他に誰もいないので、先ほどから宙はずっと独り言をもらしていた。  確かにおかしいのである。  33番の釉薬をつけて焼いても、色見本のようなマットな青色が出ないのだから。  素地は見本通りに白い陶土にしている。土の色が変われば、とうぜん焼き色も変わるからだ。  つける釉薬の厚みも気を配った。薄すぎず、厚すぎず。ちょうどいいはずなのだ。  本焼きの窯の温度は、教室では常に一定になっている。  1230℃。設定されたプログラム通りに温度の上昇も下降も管理されている。  なのに──。  色見本の色とは似ても似つかない焼き上がり。  窯から出た作品の表面はテカテカしているのだ。色も緑色である。  流れ落ちた釉薬が棚板にくっついていた。こんなに流れる釉薬なのかと思いながら、くっついて離れない作品をハンマーで叩き割って取り去る。 「おかしい」  色見本は、トルコ石のような青。地中海の海を思わせるような。マットな色調。さらりとした手触り。  かたや、その釉薬をかけた作品はテカテカ。薄めた織部釉のような色。手触りもツルツルしている。  マットな青とテカテカの緑。謎の33番──。 「うがあああああああ!」  再度付け加えるが、他に誰もいないので宙は吠えた。  道具を片づけ、帰り支度をはじめる。向かうのは、古民家カフェ「櫻」である。  ◇ 「というわけなのよ」 「それを私に言われましても」  宙が事の流れを説明すると、マスターが困惑顔を向けた。とうぜんである。彼は陶芸のことなどサッパリ分からないのだから。  カフェで使われている珈琲カップは陶器が多い。古民家風の内装に合わせて渋い色合いに統一されている。  とはいえ、使うのと作るのは別の話だ。 「宇宙の謎を解明するよりは簡単でしょ」 「どうでしょうねぇ。窯のなかは宇宙の神秘でしょうから」  曜変天目(ようへんてんもく)茶碗というものがある。  中国福建省で南宋時代につくられた天目茶碗のひとつで、漆黒の面に大小の星紋が玉虫色の影を帯びて浮かび上がった珍しい茶碗である。  宇宙が濃縮されて詰め込まれたような逸品。 「私にとっては全てが宇宙の神秘だわ」 「まあ。不思議なものは不思議なままで……と言いたいところですが、そうもいかないのでしょう。推理するには材料がいりますね。どうやら、その33番は違う釉薬のようですし」 「違う? 色見本の番号も33なのに? トルコ青って書いてるのに?」 「しかし、窯から出てくる物は別物なわけですよね」 「うーん。どうなんだろ。釉薬ってさ、ちょっとしたことでけっこうイメージが変わってしまうのよ。あの教室は電気窯だから酸化焼成だけど、還元焼成にしたら、またぜんぜん変わってしまうし。窯の内部でも温度に差があったりするし」 「十数年のあいだになにがあったのか。はたしてあの見本は、あの窯で焼かれた物なのか」 「そこまで行くと、もうお手上げよぉ!」  マスターがアイスコーヒーをカウンターに置く。  盛夏なのだ。しかし、窓を開け放した二階のカフェには涼しい風が吹き通る。エアコン要らずである。 「宙さん。シロップもどうぞ」 「あ。ありがと」  濃いめの薫り高いアイスコーヒー。ひと口目はブラックで飲む。目の覚めるような苦さがいい。その後からシロップを入れる。別物の味を楽しむのだ。 「そういえば、宙さん。ここ一か月ほど、ご無沙汰でしたね」  マスターの言葉に、宙がムスッとした顔を向けた。  思い出したくもないことを。  ──不思議なものは不思議なままで。  そうなのだ。ここ一か月に手にしたものはなにもない。  残ったのは不可解な釉薬の謎と、不可解な人のこころだけである。 「ちょっといい雰囲気になった人がいたのよ。ネット上の付き合いだったけど」 「その表情から察するに、もう終わったわけですね」  マスターがあっさりと結論を出した。宙が眉間に皺を寄せる。 「既婚者だったのよ。追求してバレた途端に、はいさよなら。今度は既婚者と付き合ってるらしいわ。その方が気が楽だからって。もう頭にきて、ぶっちぎった」 「おつかれさまでした。宙さんは、その方とリアルでお付き合いする気があったんですか?」 「ないわよ。相手は海外に住んでるんだもの」 「でも、後悔してる?」 「後悔? なんでよ。嘘つきと付き合って、なにかいいことある?」 「真実が分かるまで、少なくとも宙さんは楽しかったわけでしょう? その楽しい時間と真実とを秤にかけて、宙さんは真実の方を選んだ。仮想空間でのやりとりなら、その物語を楽しむ方法もあったわけですよね? 嘘は嘘のまま。分からないものは分からないままで」  嘘は嘘のまま。分からないことは分からないまま。  それでも、人は宇宙の神秘を解き明かしたい生き物なのだ。  今、これが真実だと思っていても、明日には全く逆になっているかもしれないというのに。  アイスコーヒーのグラスの中で、粘度のあるガムシロップが流れていく。  グラスに手を添え、それを持ちあげようとして、伝い落ちた水滴がカウンターに吸い付き、一瞬の抵抗を感じる。  ──流れる。棚板にくっつく。バケツの底に溜まったザラリとした釉薬。混ぜても混ぜてもすぐに沈殿してしまう釉薬。  流れやすい釉薬。ガラス釉だ。ガラス釉は沈殿が速い。  あのテカテカした仕上がりは、ガラス釉のものだったのだ。 「マスター。謎が解けた」 「はい?」 「33番はトルコ青ガラス釉よ。あの色見本はトルコ青マット釉。マスターの言ったように別物なんだわ。マット釉を使い切った後に間違ってガラス釉を買って、同じトルコ青だからって、そのままあのバケツに入れたんだ」 「またひとつ、宇宙の神秘が暴かれてしまいましたね」 「……非難される覚えはないんだけどぉ」  顔を見合わせて、二人でくすりと笑い合う。 「宙さんは、あくまでも真実を追い求めますか」 「うん。性分だもん」  明日になったら変わってしまうような真実であっても。それでも。 「さっきの方。どこに住んでるんですか?」 「イタリアだけど?」  地中海を望む海岸の街。  映像や写真でしか知らない、あの青を再現したかったのだ。  まっさらな、美しい青を。嘘偽りのない、そのままの色を。 「トルコ青マット釉。今度つくったら見せて下さいね」 「了解です」  カフェの窓から望む盛夏の空は、少しくすんでいた。  湿度の高い日本の空。白い入道雲。  あの空の彼方には漆黒の宇宙がある。そして多くの星雲を浮かべているのだ。  曜変天目のように。多くの謎をはらんだままで。 「マスター。アイスコーヒーおかわり」  水曜日。  本日の古民家カフェ「櫻」も、貸し切りであった。
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