天使は甘いキスが好き

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 恵、おにいちゃんだから伊吹をお願いねうん、僕ねがんばるよ?小さい頃の約束は、とても大きな宝物だった。たとえ、それが悲しい約束でも。僕にとっては…。  聖カトレア保育園 夜七時を少し回った頃、白い息を吐きながら若い女性が門を開け、下駄箱付近で靴を脱ぐと、ガラス戸を開けて教室に入って来た。 背の中程まで伸ばした髪は、緩くカールが掛かっている。ガラス戸には可愛い熊や猫、コアラ等の手作りの絵が飾られている。  壁には子供達の顔写真と誕生日が飾られ、背丈の低いロッカーには、二人分の鞄が置かれていた。 「克幸」  小さな背を丸めて、お絵描きをしていた二人が同時に振り返り、ひとりが満面の笑顔で駆け寄る。  保育園の【ばらぐみ】に息子を迎えに来た母親が、成田克幸をギュッと抱き締めた。 克幸は友人の眼を気にして、恥ずかしげにジタバタと暴れ、床の上でお絵描きをしている細川伊吹を振り返った。 「いぶき、おれかえるからまたあしたな!」  声を掛けられた伊吹は、うんと頷き小さく手を振った。 薄茶い瞳は大きく、肩まで伸ばした茶色い髪はクルリとはねて、宗教画から飛び出した様な、可愛らしい顔立ちをしていた。 「またね」  伊吹が寂しそうに云うが、克幸は気付かずに帰って行く。それを見送った男性保育士が伊吹に歩み寄った。教室には伊吹がひとり、背中を向けて一生懸命に何かを描いている。後方から覗き込むと、その絵は女性の顔が描かれていた。 背景は桜の木だろうか。その下には男の子らしき顔が二人。 「お母さんの似顔絵かな? 伊吹君上手だね」 伊吹は髪を塗る手を止め、新人保育士の沼田を仰ぎ見た。髪は茶色。伊吹と同じ髪の色だ。沼田は今年保育士として中途採用された男性保育士で、大学を出た後、他の保育園で研修し、やっと空きの出たこの保育園に任期となった。中々のイケメンだと、保護者のお母様軍団の間では噂されている。こちらも肩まであるセミロングヘア。後ろにゴムで一本で束ねている。  沼田は当初伊吹を【女の子】だと勘違いしていたのを思い出した。教室の中は暖房が効いていて温かい。 「先生は絵が下手だからなぁ、伊吹君は将来画家さんかな?」  それを聞いた伊吹は大きな瞳を輝かせる。 「せんせい、がかさんておかねもちになれる?」   薄い茶色の瞳をキラキラさせて。 「へ?」  沼田は首を傾げた。大きな瞳でジッと見詰められると、どう答えたものかと悩む。 「な、なれるかな? でもなんで?」  沼田はキョトンとして、不思議な物を見る様に伊吹を見た。まだ五歳の子供がお金の心配とは、何事だ? 「ぼくのおかさんあかちゃんうむから、よういくひっていうの? おばあちゃんがいってたの、きいたの。おいしゃさんは、うまれてくるのはふたごだっていってたから。きんじょのおばちゃんに」   あぁそういえば、と沼田は思い出す。 先週先輩保育士が『伊吹君のお母さんが入院したので、お迎えが伊吹君のお兄さん』だと聞いていたのだ。昨夜も元気な礼儀正しい挨拶をする、高校生がママチャリで迎えに来ていた。伊吹に似た綺麗な少年だ。 そうかそれでがお金がいるのか。 沼田はフムフムと頷いた。先日、田舎の母親から『あんたにはこれだけのお金が掛かったんだから。一生掛かってでも、返してね?  あ、ローン返済なら、二パーセントの金利かけるから、よ・ろ・し・く』と云われたのだ。沼田は背中をぞわりとさせて、苦笑する。嫌な事を思い出した。母よ、あんたは鬼か。安月給なのだ。新人は特に。 「そうか、双子かぁ。それなら大変だね。俺も大変だけど…おむつ代とかミルク代とかって、掛かるだろうし。ということは、伊吹君は【お兄ちゃん】になるんだね」  それならば納得だと、沼田は微笑んだ。新しい家族が増えるのは、くすぐったい気分だろう。ましてや双子となれば、倍増に嬉しい筈だ。
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