出会い

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大正4年──春。 近衛(このえ)家の邸のリビングに降りてきたのは、この家の次男に当たる近衛清一郎(このえ せいいちろう)だ。 「おはようございます母さん。少し早いですが、行って参ります。」 リビングで珈琲を飲んでいた母に、清一郎は少し近寄って朝の挨拶をした。 「あら?清一郎さん、こんな早くにどこへお出かけに?」 「……大学院が今日からなので。先日お伝えしましたよ。」 「あぁ、そうだったわね。すっかり忘れていたわ、今日は(さとし)さんが帰ってくるからそのことで頭がいっぱいで。」 「兄さんはいつ頃戻られるんですか?」 「夕方と言っていたわ、ですから清一郎さんもディナーまでには帰ってきてくださいね。」 「はい…分かりました。」 にこにこと機嫌の良さそうな母にもう一度行って参りますと言って、清一郎は家を出た。 月に数度しか帰ってこない兄のことは覚えているのに、毎日顔を合わせている自分の学校のことは覚えていないのか。と言いたくなったが、それも今に始まったことではない。 この扱いにも随分前に慣れ、無関心が故に得られた自由を楽しもうと、清一郎は大学の教授に勧められるまま院へと上がったのだ。 大学院と言っても将来を自分で決められる訳でもないので、一般の大学院、つまりは今まで専攻していた学問分野をより学べるだけなのだが。 勉強自体は幼い頃から得意であったし、何より家を空ける理由ができることが清一郎には重要だった。 「坊ちゃん、おはようございます。もう学校へ行かれるのですか?すぐにお車の用意を致しますね。」 門までの道を歩いていると、この家の執事長をしている黒部(くろべ)が現れた。 黒部は清一郎の祖父の代から近衛家に仕えている。有能で家族からの信頼も厚く、いつも独りな清一郎を幼い頃から気にかけてくれる数少ない人物の一人だった。 「おはよう、黒部。今日も朝からご苦労さま。庭の花達も嬉しそうだよ、僕が学校に行っている間の世話を任せてしまって申し訳ないね。それと、車は出さなくていいよ。」 「いえいえ、これが私の仕事ですから。…お車のご用意はよろしいのですか?」 「うん、少し時間がかかるけれど今日は歩いていこうと思うんだ。数日前に通りの桜に蕾を見つけてね、きっと今頃は満開なはずだから。車だとゆっくり見れないだろう?そのために早起きしたんだ。」 「左様でございましたか。今の時間帯は人通りも少ないでしょうから、より綺麗に見れると思いますよ。ですが時間も気にしてくださいね、坊ちゃんは些か熱中しすぎる所がありますから。」 「ふふ、気を付けるよ。」 行ってらっしゃいませと頭を下げる黒部に手を振り、清一郎は門を出ると目的だった通りへと歩き始めた。
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