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「………ここ、かな?」
清一郎は一枚の紙を手に、重厚そうな木の扉の前に立っていた。
『園芸学部研究室』と書かれた板に積もった埃に目をやりながら、扉を3回ノックする。
中からの返事はなかった。
誰もいないはずはないのだがともう一度ノックする。
やはり中からの反応はない。
「失礼します……」
清一郎は遠慮がちに扉を開けると、中をそろりと覗いた。見える範囲には人の気配はない。ええいままよと、そのまま入る。中は研究室らしく様々な資料や本が山積みなっているが、部屋のほとんどを占めてるのは多種多様な植物だった。
「わ、ぁ………!これ、天竺牡丹の球根!?本物だ…!」
図鑑の絵でしか見たことのなかった西洋植物に、思わず駆け寄る。
両親の手前、大学では座学がメインで土いじりなどさせては貰えなかったからだ。
(咲いたところも見てみたいなぁ。)
「おい、なにしてる。」
「っ!!ごめんなさいっ!」
球根に気を取られていると、いきなり後ろから声がした。清一郎は慌てて手を引っ込めて振り返った。
そこには重そうな袋を抱えた大柄の男が立っていた。筋肉質という訳では無いが、無駄な肉が無く引き締まった体つきをしている。清一郎は170cmとそこまで低い身長ではないはずが、相手は頭一つ分高く180cmを超えているかもしれない。
「お前誰だ?」
不審者を見る目付きで男が聞いてくる。清一郎は誤解を解こうと持っていた紙を男の前に突きだした。
「あ、あの…今日からここで勉強させていただきます、近衛清一郎と言います。敷教授にお会いしたくて…っ!」
この研究室の責任者である敷教授に会いに来た旨を伝えると、清一郎は恐る恐るといったように男を見上げた。
「……。」
男は暫く紙を見つめた後に清一郎へと目を移した。男が何かを言おうと口を開きかけた時──
「扉の前で突っ立ってるな、周。お前はでかいんだから邪魔になるだろう!」
半分ほど空いた扉の隙間から威勢のいいテノールが飛び込んできた。
男は声の方へちらりと視線を向けると黙って一歩下がって扉を開けた。
その向こうからは、これまた同じように重そうな袋を抱えた初老の男が入ってきた。袖を盛大にまくり上げているが、糊のきいたシャツに仕立ての良さそうなベストを着こなした姿はどこか気品があって、それなりの格好をしていたら貴族に間違われそうだ。
「あ、敷教授…ですよね?初めまして、今日からお世話になります近衛清一郎です。」
大学内で一度だけ見かけた記憶を頼りに教授に話しかける。
「あぁ!もう来ていたのか。すまんな、裏山で肥料用の土を取っていたんだ。」
教授は「つい時間がかかってな」と頭をかいて謝ってきた。
見かけによらず気さくな人なのかもしれない。
「早速で悪いが、肥料運びを手伝ってくれないか。うちは研究もするが、育てる方が主なんだ。」
教授は肩に抱えた袋を叩いて清一郎に笑いかけた。
「はい!あ、でもあの……」
清一郎はまだ扉近くに立っている男へと視線を向けたあと、教授の方に戻した。
「あぁ、紹介しないとな。彼は私の助手だ。元々ここの学生だったんだが事情があって辞めてな、しかし頭はいいから勿体ないと思って研究室の助手として雇ってるんだ。ここなら合間に勉強もできるからな。」
「仲良くしてやってくれ」と教授に言われた男は清一郎を一瞥した。
「キキョウアマネだ。」
「キキョウ?」
「姫に京都の京で姫京だ。アマネは円周率の周。」
無愛想にそれだけ言うと担いでいた袋を置いて奥へと行ってしまった。
「周、なんだその態度は。近衛君気にしないでくれ、あいつはあまり愛想がないんだ。」
「いえ、僕は大丈夫です。」
慣れてますから、とまでは言わずにはにかむ。
「それなら良かった。では、この肥料を奥の温室まで運んでくれ。重たいからな。」
「はい!」
清一郎は上着を脱ぐと床に積まれた袋を持ち上げて教授の後へと続いた。
「……あ!」
大学の講義の終了を知らせるチャイムに顔を上げて時計を見れば、もう夕方だった。窓の外はうっすらとオレンジに染ってきている。今朝の母の言葉を思い出した清一郎は小さく声を漏らしてしまった。
「ん?もうこんな時間か。初日だし、もう帰りなさい。」
清一郎の声に教授も手を止めて時計を覗いた。
作業に夢中で時間を全く気にしていなかった清一郎は慌てて帰り支度を整えた。
「すみませんっ!夕方から約束があったのをすっかり忘れていて……お言葉に甘えてこれで失礼します!」
「明日も同じ時間に参ります!」と教授に会釈をして温室を出ようとした時。
「おい、待て。」
「え?」
「顔…土がついてる。」
周が近付いてきて顔の汚れを拭ってくれた。
「あ、ありがとうございます、!」
いきなりの至近距離に清一郎は声を裏返しながら礼を言う。近くから見るとますます整った顔立ちをしているのがわかる。
ドキドキと煩い心臓に疑問を持ちながら、清一郎は帰路を急いだ。
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