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02. ポイント・オブ・ノー・リターン<1>
目を閉じても、閉じなくても。目の前には、あの日焼きついた光景がちらちらとよぎる。
少女の笑い声。大樹の上からひらりと舞い降りて、与えられた不自由に、いや、と叫んだ声。そのかたわらにいる小さな爬虫類の静かなまなざし。
スープの匂い、藁の匂いのする寝床。冷たい灰色の空の下で低く響く、老婆の歌声。目隠しした人々に囲まれたときの、恐怖とも畏敬とも安堵ともつかない感情。……
「——サイレ」
あの時代、歌には意味があった。今よりももっと強い意味が、そして力が。謡い家の人々は忌避され、同時に敬われ、逃れることのできない責務を負っていた。だが、それに関心をもつことは、子どもには許されなかった。
「サイレ、おい」
しかし、なにひとつ許されていなかったころ、エンジュはまちがいなく幸福だった。さまざまなことが許されていくにしたがって、エンジュは求めていた自由を失っていくのだろう。いつか謡い家の人々が背負うものを知るとき、少女は少女でなくなっているのだろう。そのとき、彼女のかたわらには、あのトカゲ以外に誰がいるのだろう?
「——サイレ・コリンズワース。起きなさい」
男の声に、サイレは顔をあげた。アイバンがとなりで肩をすくめてみせる。
「起きてます」
「では、古代における占星術の位置づけについて述べよ」
「はい」
サイレは立ちあがる。天文学史の授業中だった。階段教室の中心で教師がサイレをにらんでいる。周囲の学生は、またか、という顔だ。
「古代において、天体の運行を観察し、国や人の運命を読みとろうと試みる占星術は、現代におけるいわゆる占星術とは異なり、『科学』といって差し支えないものでした。
たとえば、古代の覇者として名高いメサウィラ帝国は、帝王アルキス一世の治世において全盛期を迎え、その版図は最大となりましたが、繁栄の最大の理由は占星術にあったといわれています。アルキス一世は星見や占星術士を多く食客として抱え、非常に正確な予知を行わせました。
しかし、地表のほぼ百パーセントが〈毒の海〉に沈んだ現代においては、アルキス一世の家臣が行った占星術の方法は謎のヴェールに包まれてしまいました。そもそも、トリゴナル以前も史料らしい史料は発見されていなかったうえ、すべてのメサウィラの遺構は今や〈毒の海〉の下にあるのです。
さらにいえば、アルキス一世の死とともに、その高度な占星術の方法は失われ、メサウィラ帝国は斜陽の時代を迎えることとなりました。今なお『アルキス一世の占星術』といえば、闇に葬られたすばらしいものを意味する慣用句であり」
「もういい」
教師は遮った。
「ページの半分も読んでませんけど」
「コリンズワース、おまえが優秀なのはよくわかった。だが一応いっておくけどな、学問は教科書の丸暗記じゃない」
「丸暗記で点とれるのが悪いんじゃないですか。うちの団長みたいなこと、先生まで言わないでくださいよ」
「ギルヴィエラ・ハンはよくわかっとる。先生も心から同意だ」
「すみませんね」
「授業は聞いといてくれな。授業料払っとる親御さんが気の毒だからな。
話を戻す。いまコリンズワースが棒読みしたとおり、アルキス一世の占星術は残念ながら今では失われた。いま残っているのは、アルキス一世の占星術がとんでもなく当たったという噂話だけときてる。アルキス一世の功績については、今もこの棒読み君が進めてる星〈メモリア〉の解析なんかが明らかにしてくれるかもしれんが」
サイレは腰を下ろした。教室にかすかな笑いが起こる。
「これも、あくまで過去の話だ。そのうち、宙に浮いているままの星〈メモリア〉を解析できるようになったら、古代メサウィラの時代みたく、また占星術が『科学』になる時代がくるかもしれんね。楽しみというべきか、恐ろしいというべきか。これがトリゴナル以後の天文学の最終目的なわけだが、当然、試験には出ない。いいか、試験には絶対に出ない」
メモリアの話題から遠くなるにつれ、サイレの意識もまた遠のいていく。目の前にまた少女の着ていた貫頭衣の裾がちらつきはじめたとき、ふたたび現実に引き戻された。
アイバンが肩をつついている。アイバンが机の上の端末を指さすと、画面が点滅していた。画面を叩くと、ニュース映像が無音で流れだす。
テロップによると、発見されたばかりのメモリアがトリゴナルKにもたらされ、しかもすぐに適合者が発見されたという話題だった。おおかたの予想どおり、例のクラシック情報マガジンにリンクが貼られていて、開けるとサイレの歌声が再生されるようになっていた。音声なしの前回公演の映像を、サイレは指先で止めた。
〈棒読み君、またまた有名になっちゃうな! アイバン〉
〈メモリアで見た世界はどうだった? ラケル〉
天文学概論は全クラスの統一科目だ。アイバンのむこうにはラケルタ、そのむこうにはイヴもいる。授業そっちのけで飛んでくるメッセージを、サイレは打ち返した。
〈自分のことみたいだった サイレ〉
〈どういうことよ? アイバン〉
〈彼女の目が自分の目になったみたいに見てた。厳密にいうとちがうかも。少し高いところから俯瞰してるのかな。だけど、彼女の人生の大切なところを拾いあげて見てる感じで、ずっと見てるうちに彼女に没入して、彼女と自分の区別がつかなくなる サイレ〉
〈ねえねえそれって! そもそも彼女とサイレは似てるってことじゃない??? だれでも人生全部見たら没入できるってことないもんね??? 相性ってものがあるもんね!!! わたし思うんだけど! サイレは彼女の生まれ変わりなんじゃない!? だから彼女のメモリアに適合したんだよ! サイレは彼女自身なんだよ!!! イヴ〉
〈それはムリでしょ サイレ〉
〈なんで??? イヴ〉
〈なんでって、根本的にムリ サイレ〉
〈なぜそもそも彼女のメモリアが発見されたかって話 ハル〉
斜めうしろの席に座っているハルが、やりとりに割りこんできた。サイレたちがうしろに目をやると、まじめくさって端末にノートをとっているふうのハルが、目でうなずいた。
〈そもそも、星が墜ちたからメモリアとして発見される。星が墜ちるということは、この世界での役割を終えて、生まれ変わるのをやめたということだ。サイレがもしエンジュの生まれ変わりなら、エンジュの星は今も空に浮かんでいて、墜ちて発見されることもなかった ハル〉
〈おっ、メモリアの持ち主エンジュっていうんだ? 情報早いね~! ユイ〉
〈先週公開されたラボのレポートには目を通したよ。まだ中等科とはいえ、一介の天文学徒として、やはり新発見のメモリアには関心をもたざるをえないからね。ラケルタ、あなたもそう思いませんか? ハル〉
ここでメッセージの応酬は止まった。呼びかけられた当のラケルタが、とうに端末から目を離して講義に戻っていたからだ。イヴに肩をつつかれてメッセージに目を通したラケルタは、簡単な返事を書く。
〈そうね ラケル〉
がっかりした様子のハルだったが、ほかの生徒からメモリアに関する質問が寄せられたので、意気揚々とメモリア解析の最新情報を流しはじめた。
エンジュという古代に生きた少女が、その墜ちた星〈メモリア〉の持ち主であること。時代背景は、もちろんトリゴナル以前も以前、BT(ビフォア・トリゴナル)三千年代で、古メサウィラ時代と呼ばれるごく短い期間であること。メサウィラは、小さな集落にすぎなかったころから数えれば、かれこれ三百年も続いた国だが、いわゆる古メサウィラ時代と呼ばれるのは、全盛期であるわずか十年足らずの期間、すなわちアルキス一世治下のメサウィラだけ。
エンジュという少女が所属したティンダルという傭兵村は、ほとんど記録に残されていないが、アルキス一世時代にまさに彼の命令によって滅ぼされたという史書の一文だけが伝えられている。『メサウィラ全史』と呼ばれる、帝王アルキスが命じて編纂させた歴史書は、トリゴナル内に持ちこまれた貴重な史料のひとつであり、今はトリゴナルBの博物館が所有している。
〈謎に包まれた古代の傭兵村の全貌が、そのメモリアによって明らかにされるってわけね! キキ〉
〈そうだね。早くも傭兵村の独特の文化が記述されはじめているよ。それを直接……というべきなのかな? 目撃できるなんて、サイレがうらやましい。替わってほしいぐらいだよ ハル〉
〈やだ サイレ〉
サイレは即答し、端末を切った。その後もメッセージが飛び交っているようだったが、エンジュのことが級友たちに語られることのふしぎに不愉快な気持ちを、サイレは密かにもてあましていた。自分が見たもの、聞いたもののすべてが記録され、レポートされるとしても、エンジュのことを「直接」知っているのは自分だけだ、という埒もない自負。
そしてまた、目の奥で少女が跳ねる。トカゲを肩にのせて、弾むように笑いながら。
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