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02. ポイント・オブ・ノー・リターン<3>
静かにね、と合図して、真っ暗な馬屋に忍びこんだ。物音をたてないよう、藁のうえにそっと横たわると、日ごろ戦場を駆け抜ける馬たちも、つられて息をひそめる。
馬屋に静けさがひろがり、その奥から、歌声が低く響いてくる。謡い家は馬屋のとなりにあった。
謡い家の長老スエンと出会ったあと、決して教えてはもらえない歌をどこで聴くのがいいか探しまわった。おそらく馬の気配に隠れるのだろう、馬屋なら謡い家の人々に気づかれなかった。
気づかれれば、彼らは歌をやめてしまう。歌はティンダルの禁忌であり、目隠しされた人々の責務だ。無責任に歌を欲するエンジュを、彼らは天幕に受け入れこそすれ、決して歌を許すことはない。でも、エンジュの行動は察しているのだろう。今日も闇のむこうから、かすかに老婆の歌声が聞こえる。
藁の匂いを吸いこみ、エンジュは姿勢を変えた。ふいに、手首がかたいものに触れる。エンジュはそれを指先で探った。——手首だった。少女は悲鳴をあげた。
「ん?」
藁が声を発して盛りあがり、エンジュは転がり落ちそうになる。
しかし、そのまえに誰かの手が少女の手首をとらえて、腰を支えてきた。
「——ごめん!」
聞いたような男の声だった。いや、男というより、まだ少年の。
「仕事のあとルルの世話して、そのまま寝てた。その声、エンジュ?」
「そっちは……フリッツ?」
「何してるの?」
「別に何も……」
エンジュは少年の手を払った。「おちこぼれには寝屋はいづらいだけ。……さあ、はやく帰って。今ならまだ夕餉が残っているかもよ」
「いや、もうむりでしょう。エンジュは十五歳以下の男の集団を過小評価してる。ところで、どうして声をひそめるの?」
「こんな深夜に、結婚前の男女が馬屋でみつかってみなさい。いくらわたしでも、姦通の罪でアルバ・サイフに裂かれるのはいや」
ティンダルの結婚年齢は十六歳だ。正規の手続きを踏んで、女が男を選ぶことで結婚は成立する。正規の手続きを踏まない関係は姦通の罪に問われ、よくて追放、悪ければ仲間の刃によって処刑される。
「わかったら帰って。無事ですみたければ、ここでわたしと会ったことは誰にもいわないで。なんならあなたのルルの手入れはしておいてあげるから。さあ行って」
「きみのルルは毛がなくてうらやましいな」
「皮肉はやめて」
ルルは、フリッツの愛馬の名前でもある。ティンダルでは馬によくつける名前だ。
エンジュは自分の馬をもたない。いるのはトカゲのルルだけだ。なぜならティンダルでは、ラピスラズリが一定数を超えないと馬を与えられないからだ。
「もういいでしょ、行って」
「歌だね。謡い家が近いからかな」
エンジュの期待に反して、少年の耳はかすかな音をとらえていた。
「……」
「どうしてそんなにいやそうな顔?」
「帰る」
エンジュは立ちあがった。しばらくここには来られない。泣きそうになるのをこらえて、踵を返す。馬屋のなかの馬たちが、エンジュの動揺を察してざわつく。
「待って」
フリッツがエンジュの手をつかんだ。暗闇のなかで正確に動く少年は、確かに優れた〈ティンダルの馬〉なのだろう。
「エンジュは歌がきらい?」
「……」
「言ってはいけないことかもしれないけど、俺は謡い家の人たちの歌が好きだ。知ってる? 謡い家の人たちは、ティンダルの罪をその身に背負って生まれてきた。ティンダルの罪を歌い継いでいくのが、あの人たちの義務だ。
だけど、あの人たちの声には、自分が犯したわけでもない誰かの罪を恨む響きは全然なくて、……やさしい」
少女はそのときはじめて、目の前のひとりの少年を見た。暗闇のなかで表情まではわからなかったが、その声には表情がある。
「俺はだれかが死んだとき、あの人たちの歌が朝方聞こえてくるのを、不謹慎だけど楽しみにしてて。馬屋で聞こえるなんて知らなかった。今日はついてる」
「それならもう少し声を落として。あの人たちはすごく耳がいいの。わたしたちが聴いてることに気づいたら、歌うのをやめてしまう。もう気づいているのかもしれないけど、あの人たちは本当にやさしいから」
あなたの言うとおり、といって、エンジュはふたたび藁のうえに横たわった。目を閉じると、ふたたび周囲の馬たちが気配を殺しはじめた。ひょっとしたら馬たちも、スエンの歌を聴きたくてエンジュの呼吸に合わせてくれるのだろうか?
少年の手が少女の手をとらえたままだったが、振り払うことはしなかった。
フリッツはエンジュとは同年齢で異民族出身の元奴隷、つまりかつてエンジュのために買われてきた子どもの一人だった。
彼もマリオン同様、十五歳の男子では随一の戦士との呼び声高い。彼が手に入れたラピスラズリももはや多すぎ、やはりとうの昔に身につけてはいなかった。
ティンダルの衣装だけをまとった身軽ないでたちで、少年はアルバ・サイフとともに舞っていた。
灰色の空の下、試合場の円の中を縦横無尽に駆け巡る二人の少年。だが、やがて相手の少年は均衡を崩していった。地面に倒れこんだ仲間の腕をフリッツは引き、背中に勝利の宣言を受ける。年長の審判は、しきたりどおり勝者にラピスラズリを与えようとした。
「いいよ、邪魔だし。ほしいやつにあげてよ。あっカイウス、要るならあげるけど?」
「うるせえ! 要るか!」
少年の陽気な笑声が、集落に響き渡った。負けたカイウスは肩をいからせて円の外に出ていく。フリッツはカイウスを見送ってから、笑みをおさめ、何かに気づいたように目を丸くした。
——あ。
少女は、ぎくりとした。
(目が)
エンジュは、樹上からあわてて飛び降りる。逃げたことに気づかれないように、試合場とは反対方向へ。地面に降り立つと、急いで駆けだした。
エンジュは少し離れたところにある木の上から、十五歳以下の少年たちの試合を見ていたのだった。わけてもその中心にいるフリッツを。あの夜、馬屋で出会った、異民族の少年のひとりを。
なぜと訊かれても、わからない。ただ、自然と足が試合場にむいていた。同時に行われている女子の試合はいつもどおり放棄して、エンジュは光の下で少年を確かめるべく樹上に隠れた。ルルも、巨大なからだを幹にそわせて木と一体化していた。
けれど少年はエンジュに気づいた。ほかの誰もエンジュに気づかないのに、なぜ彼だけは気づいてしまうのだろう? 真夜中に響くかすかな歌に、彼だけが耳を澄ますのだろう? このティンダルで、彼ひとりだけが——。
エンジュは〈草の海〉に飛びこんでいった。彼女を覆い隠すほどに高い草のなかへ。エンジュは試合を見ていただけであって、逃げる必要なんかないとわかってはいたが、止まらなかった。
「——エンジュ!」
少女は硬直する。すぐそこで、草をかき分ける音がした。
「どうして逃げるの?」
うしろを振り返ることはできなかった。
「試合見ててくれたんだ?」
息も切らさずに、少年はそばに来た。
「ねえ、こっち見て? エンジュ」
どうして、彼ひとりだけが。
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