02. ポイント・オブ・ノー・リターン<4>

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02. ポイント・オブ・ノー・リターン<4>

 アルバ・サイフは重い。両手両足に装着したバングルから鋼の糸がのび、それぞれの先端に刃がくくりつけられている。一見したところ軽そうにみえるが、糸の先の刃を思いどおりに操るにはかなりの腕力と脚力を要する。  このアルバ・サイフの糸と刃こそ、報酬と引き替えに戦闘行為をおこなうティンダルの価値そのものだった。なぜなら、この時代、アルバ・サイフの四本の糸ほど細い鋼鉄の糸を精製する技術は存在せず、四つの刃ほど白く美しく鋭い刃を鍛造する技術も存在しないからだ。  アルバ・サイフはティンダルにのみ受け継がれる武具であり、製造方法は謎に包まれていた。しかし、ティンダル自身もアルバ・サイフを新たにつくりだすことはできず、研ぎによって状態を保つのがせいぜいだった。けれど不思議なことに、鍛冶の村ではないティンダルの拙い研ぎでも、アルバ・サイフはその輝きと鋭さを保ち、その繊細にして鋭い唯一無二の刃によって、ティンダルは〈草の海〉において最強の名をほしいままにしていた。  アルバ・サイフの恐ろしさは、何よりもその縦横無尽な攻撃——使用者の技術によるのだが——にある。  右手首、左手首、右足首、左足首。そこから出る四本の糸の四枚の刃は、あるときは四方向から逃げる敵の行く手を塞いで刺し貫き、あるときは一方向から四枚同時に敵に襲いかかって致命傷を負わせる。両手足の刃それぞれにみずからの意思を反映させて戦うさまは、まるで舞のようでもあった。だからティンダルでは、筋力の増強とともに、舞踏の訓練も行われる。  戦勝の夜、その日の戦を戦い抜いた戦士たちが、雷のように激しく轟く太鼓の拍子のなかで、ティンダルの〈馬の踊り〉を舞う。  舞い手は男と女が入り交じり、男女は左右に分かれて、馬を模した足はこびで大地を踏み鳴らす。  いつもは糸をのばした状態で腕力と脚力によって操作されるアルバ・サイフも、このときは足に巻きつけられ、刃を逆にした状態で大地を打っている。カツ、カツ、カツカツカツ、と、馬の蹄を思わせる音が、踏み固められてかたくなった地面で鳴る。  馬の足の一本と化した舞い手が、みずからの足を振り上げ、飛び、大地に叩きつける。優れた踊り手ほど、高く、力強く、俊敏だ。優れた〈ティンダルの馬〉の戦勝の踊りは、太鼓を無視して加速する。一人、また一人と、速くなっていく拍子に追いつけなくなり、転倒するか、あるいはみずから踊りの輪を抜けていく。最後に残った者が最上の舞い手であり、最強の戦士でもある。  この日も最後まで立っていたのは、お決まりの二人だった。 「マリオン!」 「フリーッツ!」  二人とも、元奴隷の少年少女である。  馬の足を模した〈馬の踊り〉に、手の振り付けはない。両腕は胸の位置にあげたまま、足だけをひたすら高速で振り上げ、跳ね、振り下ろす。上半身はほぼ動かず、足下だけで踊るため、ティンダルを恐れる北方の異民族から〈薄氷の舞〉とも称された。  マリオンとフリッツはむかいあい、左右対称の動きで踊りを加速させていった。マリオンの黄金の髪は、まるで王者の王冠だ。相方の少年は、あたかもその忠実な下僕。二人ともラピスラズリをひとつもまとっていないが、誰の目にもその名声は明らかだった。二人から飛び散る汗が、ラピスラズリに代わる王冠の宝石のようだった。  太鼓の打ち手は、踊り手の加速に合わせて拍子を変化させる。カツ、カツ、カツカツカツ、カツ、カツ、カツカツカツ——いつ果てるともしれない足音に、取り残された踊り手たちもまた逸っていく。これを見る者、聞く者はみな、誰もがこの野蛮な音楽に戦士の血を駆り立てられ、駆り立てられるままに力強く手を打ち鳴らす。  そんな中で、ティンダルに一匹きりの大トカゲは、まったくの傍観者だった。踊りの輪の外で悠然と横たわり、長い舌でかたわらの少女の手をなめる。湿った舌の感覚に、エンジュは一瞬現実に引き戻されて、またほの暗い感情に戻っていく。踊りの輪を遠く離れていたものの、少女は傍観者ではいられなかった。それでいて、少女はもはや、拒否することでしかあの場所に関わることはできない。  ——どうして、あそこで踊っているのが、わたしじゃないのだろう。  それがまごうことなき自分の選択の結果であることは、よくわかっている。つい先日までは、このことになんの苦痛も疑問もなかった。ただ心は静かだった。それなのに、あの日、馬屋で少年に会ったときから、心が騒ぎはじめた。  拒絶していたラピスラズリが、ほしくなった。  ——いらない、あんなもの。  そのはずだった。  ——でも。  手のなかには、幼いころたったひとつだけもらった、空の死骸のような石がある。  二人はとっくの昔に脱ぎ捨てたというのに、今の自分は、肌を埋め尽くすほどのラピスラズリを与えられて、そのあとで捨てたいと願っている。  エンジュは立ちあがり、戦勝の宴をあとにする。巨大なトカゲも、のそりと歩きだした。いっそう激しくなっていく二人きりの踊りから、少女が顔を背けた直後、太鼓が大きくゆっくり二回打ち鳴らされ、舞の終焉が告げられた。敗者たちが歓声をあげて、勝者を祝福する。  吼え猛る戦士たちの炎も、馬屋までは届かない。エンジュは逃げこむように中に入った。いつもの藁に身を投げて、やってきたトカゲの首に腕をまわし、ぎゅっと抱きしめる。 「ごめんね、ルル」  少女はものいわぬ親友に語りかける。「どうして、こんなに弱くなっちゃったんだろう。戦うことから逃げてきたせい? ここのやり方に疑問をもったときに、もう弱くなることは決まっていたのかな? ありがとう。ルルだけ、いつも一緒にいてくれて」  近くで、馬がうなった。フリッツのルルだ。馬の鼻先をなでてやり、エンジュは目を閉じる。馬屋の暗がりだけが、少女の居場所だ。今夜もスエンの歌声はやさしい。スエンの若い仲間たちの歌も。あんな野蛮な勝利の音楽なんかより、ずっといい。 「——エンジュ?」  暗闇の奥から、少年の声が近づいてくる。 「……」  どうして来たの、とは訊けなかった。 「寝てるの?」  エンジュは闇の中に手をのばした。その手を、フリッツは正確にとる。エンジュは指先をその手に絡めて、思いきり引き寄せた。少年は声をあげかけたが、少女のうえに倒れこむことなく腕で堪えた。 「危ないよ?」  片手にルルを、もう片一方の手にフリッツの手を抱いたまま、少女は何もいわなかった。 「エン」  フリッツの声は、やさしく静かだった。「もうすぐ十六歳の試合だね」  エンジュは答えない。ただ、絡ませた指に力をこめる。 「十六歳になったら、おれたちも一人前の〈ティンダルの馬〉。子どもの禁忌もこれで終わる。こんなところに隠れて歌をきかなくても、葬礼に参列して近くで歌をきける」 「うれしくない」  エンジュは押しつぶした声で返す。「わたしは、わたしだけの歌がうれしかった。それに」  あなたとわたしだけの歌が、とは言えなかった。 「わたしは一人前の〈ティンダルの馬〉になんかなれない。なりたくもない」  大人たちが線を引いた道筋から、エンジュはずっと逃げてきた。それなのに、今フリッツに伝えていることも決してほんとうではないと、エンジュにはわかっていた。  エンジュは今すぐ、優れた〈ティンダルの馬〉になりたかった。今までそうなるための努力と戦いを放棄しておきながら、目の前にいるひとりの少年のために、今までの選択を否定したかった。  フリッツには、絶対に知られたくない。 「試合には出る?」 「いつもどおり、引きずりだされて負けるだけ」  十五歳の月例大会は、アルバ・サイフの刃を覆った状態で戦う。覆われた刃なら皮膚を切り裂かれることはないが、やることは実戦と変わらない。試合に引きずりだされれば、抵抗しないエンジュは打撲だらけになるのが常だった。相手の力量に難があればあるほど、負けの判定が出るまでに痛い目に遭う。 「何もせずに負けるのは痛いよ」 「でも、今さら戦えない。このままティンダルで、役立たずとして生きていく」 「エンジュがしんどいだけだ」 「一回立ち止まったら、もう動けなくなった。フリッツが理解する必要はない」 「そうじゃなくて……」  少年が言い募る。「そういうことじゃなくて」 「黙って。歌が聞こえない」  スエンの歌は、もう聞こえなかった。
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