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02. ポイント・オブ・ノー・リターン<5>
少年をおいて、馬屋を出た。
スエンは自分たちのやりとりを聞いたのだろうか? いつもより、歌声が途絶える時間が早い。謡い家の歌の訓練は、日によっては朝に及ぶこともあった。
白い月が、ティンダルの地を照らしている。
砂地のうえに、濃い人影がのびた。
「……マリオン?」
豊かな金の髪は、腰に届くほど。彼女を知る者のあいだでは、獅子の娘ともいわれる元奴隷の少女。膨大な量のラピスラズリを与えられておきながら、ためらうことなく脱ぎ捨て、今はなにひとつ装飾をもたないティンダルの戦士。アルバ・サイフを授けられた〈ティンダルの馬〉が命じられるとおり、深夜だというのにバングルから鋼の糸と刃を垂らしていた。
マリオンはほほえむ。長いまつげが月の光を跳ね返し、四枚の刃がからだの動きとともに跳ねて落ちる。まるで生命あるもののようだ。
知られた? エンジュは硬直した。いや、知っているから今日ここに来たのか。フリッツがつけられた? それとも、もっと前から?
「エンジュは、歌を知っている?」
元奴隷の少女は問う。
「歌?」
彼女も、謡い家を訪ねてきたのだろうか。
「わたしは、ほんとうは歌を探しにきたの」
「どういうこと?」
「鍵よ。星々の庭の鍵」
「鍵って、なに?」
エンジュにはマリオンのいっている意味が理解できなかった。
「ひらくもの。扉の奥に隠された秘密をおしひらき、光をあてるもの。秘密は、暴かれるもの」
彼女のほほえみは変わらない。
「でも、今のわたしは〈ティンダルの馬〉。〈ティンダルの馬〉に求められることをする。今度の試合で優勝したら、フリッツを花婿に指名するわ。忘れないで——あなたがどれほど強く願っても、戦わなければ勝ちとることはできない」
突然、冷たい水に叩きこまれたようだった。
十六歳の最初の月例大会。それは〈ティンダルの馬〉にとって特別な意味がある。十六歳は結婚年齢であり、男女問わず多くの若き〈ティンダルの馬〉がこの歳で結婚して子どもを産む。次世代を育てるのは、子どもの家の世話役だ。戦士の役割にある女は、出産後も戦士として戦いつづける。
結婚相手の選択権は女にある。十六歳の最初の月例大会を勝ち抜いた女が、いちばんに相手を選ぶ権利が与えられる。ティンダルにおいて、花婿の価値は戦士としての価値だけであり、自然、その世代で最強の女が最強の男を選ぶことになる。
エンジュの世代で最強の女戦士は、いうまでもなくマリオンだ。そして、男はフリッツ。大会で敗れた者に選択権はなく、たとえ秘密の恋人が勝者に奪われたとしても、ティンダルでは声をあげる権利はない。
強い者が強い者を手に入れ、その子どもを産む。それだけが、ティンダルの結婚に関する掟だった。それと無関係に発生した恋愛は姦通であり、掟に従って裁かれる。
「戦いましょう、エンジュ。最初にティンダルにつれてこられたときの、あの戦いは、まだ終わっていない。あのとき、あなたは戦おうとしなかった」
「あれはマリオンの勝ちだ」
エンジュは思わぬ言葉に、いいかえす。「あなたが受けとったラピスラズリが、その証」
「勝敗は誰かに決めてもらうことではないわ。自分が決めることよ。あんなものはただの飾り。いつでも捨てることができる。あなたもわかっているはず」
「マリオンは、わたしを買いかぶってる」
「わたしはあのときわかったの。わたしたちはこれから長いあいだ戦うことになる。あなたが戦いを拒んだ瞬間にわかった」
王者のたてがみをもつ少女は、金の瞳を細めた。
「あなたと戦う、そのためにわたしは——フリッツの子どもを産む」
いや、という言葉が、どうしても出てこなかった。自分はマリオンに負ける。
ティンダルの戦士は、みずからに与えられたアルバ・サイフを十全に扱うため、幼いころからこの武具に特化した訓練を受けている。手よりも足のほうがより操作が困難であるために、十一歳で戦士の訓練を始めたころの月例大会は足技しか使えないという決まりがある。足を存分に動かせるようになってから手技を磨くのが、伝統的な順序だった。
しかし、エンジュは段階を踏まずに来ている。攻撃に直接関係しない基礎訓練は積んでいるが、実戦訓練によってアルバ・サイフを扱う練習が欠けている以上、今さら戦うといってもむずかしかった。では、今から訓練するか? すでに次の新月が近づいているというのに、同年代一の戦士であるマリオンに勝てるわけがない。
足もとにいるルルの黒い瞳が、満月を受けて光った。
「わたしは、戦えない」
「それなら、フリッツがわたしのものになるだけ」
「誤解しないで。誰もわたしのものなんかじゃない」
この期に及んで、ティンダルの罪に問われることを恐れている自分がいた。だが、そう宣言せずにいられなかった。いずれにせよ、エンジュはティンダルの中で生まれ育ったのだから。
「そう」
マリオンがエンジュに背をむけた。とっさにエンジュは、自分の手足からのびる四枚の刃をすばやく一瞥した。そうしたあとで、自分の反射的な動きに怖気がはしった。
マリオンは仲間だ。しかも、かつて幼い自分を奮い立たせるためにむりやりつれてこられた少女。その彼女に、何をしようというのか。
マリオンは決して、フリッツとエンジュのことを族長に報告することはしないだろう。すでにエンジュは罪を犯しているけれど、発覚して罪に問われることはないだろう。しかし、やはり自分はとうに罪人だった。犯した罪を罪でなくするために、背をむけたマリオンを攻撃しようとした。
慄然とするエンジュを、元奴隷の少女が振り返る。
「いいの? ——」
やはり、マリオンには勝てない。絶対に。
「久しぶりだね、エンジュ」
天幕に入ると、小さな明かりがともされた。目隠しされた人々は明かりを必要としないから、謡い家の明かりは訪れるエンジュのためにつけられる。
「スエン……まだ休んでなかったの? わたしの足音で起こしてしまった? 歌がやんでいたから、とっくにみんな眠ったものと思っていたけれど」
「恋をしたね、エンジュ」
謡い家の長老たる老婆は言う。
エンジュは息ができなくなって、それからおそるおそる老婆の目を——目隠しのむこうからすべてを見通すその目をみた。
「恋をしても、おまえは歌を忘れない。むしろ、より歌に救いを求めている」
「助けて」
エンジュは、スエンの膝に倒れこんだ。耳のよい目隠したちに耳障りとはわかっていたが、荒くなる声をおさえることができなかった。
スエンは、幼いときからそうしてくれたように、エンジュの背中にあたたかな手をのせた。それだけでエンジュは少し安堵した。しかしまだ、エンジュの中で何かが荒れ狂っていた。
「わたしは戦いたくない。歌をうたって暮らしていたい。歌が好きなの」
「おまえは歌を愛している。それは本当。が、戦いたくないというのは嘘」
「お願い……謡い家の人たちの背負う『罪』をわたしにも頂戴。わたしも目を隠して歌うから」
「おまえは目隠しにはなれないよ」
そう言って、スエンは自分の目を覆う布に手をかけた。周囲の目隠したちがどよめく。それは、禁忌だ。
布がはずされたとき、エンジュはようやくこの謡い家がどういう場所なのか理解した。
「……ごめんなさい」
「目隠しの歌は、目隠しだけのものなのだよ。かわいい御子」
「でも、どうして今? 今までどんなに訊いても教えてくれなかったのに。わたしが十六歳になるから?」
「そのときが来たんだよ」
「スエン……?」
「さて」
スエンの声色が変わった。エンジュはとっさに老婆の膝を離れる。
「目隠しには目隠しの歌い継ぐべき歌が、おまえにはおまえの歌がある」
「……スエン!」
なんという喜びだっただろう。
長年密かに追い求めてきたもの、決して許されなかったものが、与えられる日が来るなんて。
「わたしに、歌を教えてくれるの?」
「そのとおりだ」
「わたしの歌は……何の歌?」
「〈星々の庭の歌〉——」
「星々の、庭の、歌」
甘美な響きだった。エンジュは何度も、その言葉を口ずさんだ。エンジュの歌! それは、エンジュのものだ。エンジュだけのもの。
「スエン、その歌は私たちも知りません」
若い目隠しの少年ロキが口をはさんだ。「私たちも習ってよろしいでしょうか」
「これはエンジュの歌だ。おまえたちは、ただ聴きなさい。ただし、エンジュ。おまえも、この歌をめったなことでは口にしてはいけない。私がうたうこの歌を、復唱してはいけない。だからエンジュも、ただ、聴きなさい。何度も聴いて覚えなさい。決して忘れぬように、心に刻むのだよ」
「はい」
それすらも、少女に許されるのは初めてだった。エンジュは目を輝かせる。スエンの歌を間近に聴ける。それも、こちらが歌を覚えるまで、スエンは何度でもうたってくれる。
もう、ついさっきまで頭を悩ませていたことなど、どうでもよかった。誇らしさで身がちぎれそうになるのを、少女ははじめて感じた。誰でもいい、禁じられた歌が自分にだけ許されたことを、伝えたかった。
〈神々の御世、星々の下なる丘にて……〉
目の前にいるスエンの口から響いてくる声に、胸がときめく。
それは——神々がもっと身近だった時代、星神の子どもシリウスが少年に恋をして、少女の心を手に入れるまでの物語。
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