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02. ポイント・オブ・ノー・リターン<7>
「——マリオンがフリッツを指名した! 婚礼だ!」
「酒をもて!」
怒号にも似た声に目を覚まし、エンジュはからだを起こした。
「エンジュだめだ、そんな急に。頭を打ったんだ」
あたりは日暮れ後の闇だった。
祝いの夜に、天幕と天幕のあいだにはいつもより大量の松明がともされ、あたりは赤く燃えるようだった。エンジュは、喧噪から遠い場所で地面に寝かされていた。
「アルバ・サイフの刃が頭にあたったんだよ。刃が覆われててよかったな。頭が揺れている感じはしないか?」
「ナム」
子どもの家の世話係の女だ。「……大丈夫」
いいながら、自分の声が揺らぐのに、エンジュは気づいた。あ、と思ったとき、涙が視界をふさぎ、頬を流れた。
(負けた。わたしは、負けたんだ。フリッツは、マリオンはもう)
「エンジュ」
「子どもの家に帰りたい。寝屋に戻れば、ナムが待っていてくれたころに」
「そうだな」
子どもの家を一人でやりくりするナムは、戦士ではないけれどたくましく、男のような口調で、けれども決してエンジュを侮る様子はなかった。
フリッツとのことは、ナムは知らないはずだ。あるいは、エンジュが知らないと思っているだけで、馬屋でのことは知られているのかもしれない。エンジュの十六歳の最初の月例大会がどういう意味をもっていたか、よく理解しているふうで、ナムは何度もエンジュの言葉にうなずいた。
「戦いたくなかった。ずっとそう思っていた。そうしたら、大切なものをなくした。……わたしが悪いの? わたしが自分勝手なの? 今まで怠けてきたつけだっていうの? ねえナム、わたしナムみたいになりたい」
目隠したちのように、なれないのなら。
「子どもの家を手伝ってもいい? 外の仕事には行かずに、子どもの面倒をみて、スープをつくったりして暮らす。結婚なんかしないで、ずっと子どもの世話をする」
「むりだ。おまえは私とはちがう」
ナムはきっぱりと言った。「〈ティンダルの馬〉としての義務を果たせ」
ドン、という太鼓の音が大地を震わせた。エンジュはその音に誘われるように、ふらりと立ちあがる。
つい先刻まで、十六歳の最初の月例大会が行われていた輪の中は、今や婚礼の祝祭の場と化していた。打ち鳴らされる太鼓の音と、男から男、男から女、女から男へとまわされていく酒精入りの巨大なかめ。これでもかというほど焚かれた松明の火花が飛び散るなかで、人々はかめの酒精を、半ば頭から浴びるように飲み干していく。
年に一度、十五歳の少年少女がいっせいに十六歳になり、結婚年齢を迎える祝いの日は、新年の祝いと併せてたった二回、前後不覚になって祝祭に酔いしれることが許される貴重な一日だ。人々は、普段は決して外すことを許されないアルバ・サイフを、この日だけは外し、身軽になって昂奮の渦に身を投じていく。
そのあいまを縫うように、少女は歩く。引きずる手足に、この場でただ一人、四枚の刃を下げたまま。どうしても好きになれないアルバ・サイフが、今日は大地に足をとどめているための重しのようだと、エンジュは思った。
現実味がまるでない。人々が浮かされている喜びと、酒精とが、まるでエンジュのからだにも作用しているかのようだった。それとも、松明の熱だろうか? あるいは、きょうこの夜、花嫁と花婿になる少年少女の熱なのか。
騒ぎの中心から、できるだけ遠くへ。エンジュの頭の中は、それだけだった。しかし、どこをどう歩いていたのか、気づくとまた昂奮の渦のほど近くに戻っているのだった。今いちばん見たくない二人がいるのだろう、天幕の近くへ。今夜のために特別にしつらえられた花嫁花婿の天幕、それを囲うようにして他の者たちの狂乱もくりひろげられている。
エンジュはすぐに気づいた。新婚の天幕の外に、まだ二人がいることに。それぞれ緻密な刺繍が施された純白の婚礼衣装に身を包み、酒精や場の空気に呑まれた様子もなく、ほほえんで座っている。周囲の者がどれほど昂奮の坩堝の中にあろうとも、その二人だけは清浄であるというように。
金の髪の一の戦士マリオンと、同じく一の戦士でありながら繊細さも併せもつフリッツ。
——なんて美しい。
マリオンの金の瞳が、少女をみて細められた。エンジュはあわてて目を逸らし、その場を走り去ろうとした。
だが、ようやく静かで暗い場所にきたとひと息ついたとき、すぐ背後には、月の光をまとったようなマリオンがいた。
今夜は新月。マリオン自身が光を放っているのでなければ、彼女のまわりだけがそんなに明るいわけがない。エンジュはその場で地面に崩れ落ちる。人間ではない存在をみるように、元奴隷の花嫁を仰ぎみる。
「きれい……」
「ありがとう、エンジュ」
マリオンは、何かを待っているかのように、それきり黙っていた。が、エンジュが目を伏せて動けずにいると、やがて踵を返した。
思わず、エンジュは口をひらいていた。
「わたし、知ってる」
美しい花嫁が、振り返る。「〈星々の庭の歌〉を、知ってる」
エンジュは、マリオンの答えを待たなかった。
〈神々の御世——〉
エンジュははじめて、その歌を口にする。
〈——星々の下なる丘にて……〉
声が震えた。
一度もうたったことのない歌。どれほど望んでも与えられなかった謡い家の歌。
多くの歌は、何度か馬屋で聴くうちに頭に入り、何度か隙をみて口ずさんでは歌を舌になじませていた。
でも、この歌はスエンに口伝えで教えられながら、みずから口ずさむことを禁じられたもの。スエンがあの日、エンジュが「もういい」と言うまでくりかえし、夜空が白んでからも歌ってくれた、エンジュだけの歌。それをエンジュは、マリオンのまえで歌った。
何も考えていなかった。花嫁をこの場にとどめたいという、埒もない願望以外には。
(行かないで)
ただ、その一心で。(行かないで!)
しかし、その心もまた、すぐに消しとんでしまおうとは、エンジュは想像もしていなかった。
ふっ、と。
灯火を吹き消すように、ティンダルの天幕群が消えた。
遠くにあった太鼓の音も、かしましい人々の声も、あかあかと新月の夜を照らしだしていた松明も、みな見えなくなった。
落ちる、と思った。——どこへ?
「マリオン」
「エンジュ——」
とっさに、手をのばす。
が、マリオンの、最強の戦士に似つかわしくないまでに白く細い手をかすめたとき、ふたたび落下を感じた。
そこは暗闇だった。しかし、まったくの黒一色、無味乾燥な黒ではない。よく見ていると、かすかに青みや赤みを帯びた、深みのある黒だった。どこかルルの光沢にも似ていた。真っ暗闇の世界なのに、虹を思わせる光彩。
「ルル?」
〈落ちている〉のは、エンジュとマリオンだけではなかった。いつもエンジュのそばにいるルルが、二人とともに〈落ちていた〉。エンジュは少しだけ安心した。ルルがいれば、どこか安全な場所に着地できる気がした。
自分たちは、光っていた。光りながら落ちていた。まるで自分たちが流星かのようだ。
だとしたら、ここは星空? そうだ。そうにちがいない。自分たちは、墜ちつつある、星だ。
だとしたら、このままこの世界での役割が終わってしまうのか?
「ルル、どうすればいいの」
ルルは平然と、黒い眼を細めた。いつもルルは平然としている。ルルはなんでもわかっているにちがいない。
やがて、行きつく先らしき場所が、近づいてきた。星々の光を反映している、それは水面だった。エンジュたちはそこに墜ちた。
墜ちたといっても、水面のうえにふわりと浮かんだ。なだらかな水面に、輪が描かれる。自分のからだが重量を失って、綿毛にでもなったようだった。
おそるおそる膝をつき、水面に触れる。なんの変哲もない、冷たい水だ。エンジュの指先から、水紋がひろがる。
「きれい……」
透明な、透明な水の奥に、無数の星々が輝いている。「きれいね、マリオン」
もう、そこにマリオンはいなかった。ルルだけが、水紋を描きながら、星空を映した広大な湖のうえをゆったりと闊歩していた。
「マリオン? マリオン」
みたび、エンジュは落下した。
気づけばそこはティンダルの一角、狂乱の祝祭の片隅。狂おしい新婚の夜は明けていない。
エンジュは水面に触れる姿勢のまま、ティンダルの砂地に指先を触れていた。
「エンジュ」
声をかけられて顔をあげると、目の前には花嫁衣装のマリオンと、そのむこうから走ってくる、やはり白い衣装の少年——その顔を直視するまえに、エンジュは走りだしていた。
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