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01. 〇・〇〇〇〇〇〇〇〇五パーセントの少年<2>
歌がきこえる。
スピーカーを介さない生の声なのに、とくだん音量が大きいわけでもないのに、奇妙に響く声だった。
儚げな旋律に、何か詩がついているようだったが、市民放送の音楽プログラムで流されるポップスの歌詞がいまいち聞きとれないのにも似て、その歌声も言葉をとらえられない。それなのに、雑踏のなかでさえ、歌声が耳をついて離れない。
ここは、トリゴナルK第五階層のレトロなコンサートホール〈オペラ〉、でも何でもなかった。第十二階層のアカデミア・ウニヴェルシタすぐそば、下層まで吹き抜けになったガラス張り展望エリアの一角。噴水やベンチが設置され、学生のかっこうの待ち合わせスポットになっている。
アカデミア・ウニヴェルシタ〈万国学術院〉の名のとおり、星じゅうのトリゴナルから優秀な学生を集めたアカデミアは、十大トリゴナルの中でも比較的人口が多いトリゴナルKの全人口の〇・一パーセントほどをその学生と関係者が占めている。つまり、待ち合わせスポットともなれば、どこからともなくわきでた学生がひしめき、儚げな歌などかき消されてしまう。
「イヴも聞こえない? 歌」
展望ウィンドウに張りつき、下層の動物園をのぞきみていたイヴが、肩までのやわらかい髪を揺らして振り返る。
「だれかの鼻歌? それとも、動物園の鳥さんの声? この強化ガラス、ガラスのあっち側の音は透過するようにできてるんだよ。こっちの音は通さないんだけど」
あたしたちさわがしくて鳥さんかわいそうだもんね、とイヴはガラスに手形をつける。
展望ウィンドウの全面ガラスからは、トリゴナルK各階の展望エリアと、下層の動物園〈つくられた楽園〉が見える。〈つくられた楽園〉は筒状の檻で、高さはトリゴナルK全体の高さと等しく、トリゴナル内でもっとも縦に長いスペースだった。
筒の内部には、かつて南方に存在していた熱帯雨林をイメージして、種々の常緑樹やカラフルな花が配され、そこに生息していた鳥類・類人猿などがひとつの生態系を築いている。が、吹き抜けになっているとはいえ、市民動物園は第二階層がメインで、筒の最上部である第十二階層では、たまに鳥かコウモリが飛んでくるくらいだった。
「歌詞もついてるみたいだから、人間だと思うけど。こんなにうるさいのにピアニッシモを届かせるなんて、歌うまいコがいるんだ」
「女の子ってこと?」
「こんな細い声、アカデミアの男じゃありえないでしょ」
「サイレ以外はね」
イヴは駆け寄ってくる友人をみつけて手を振った。歌声はもう聞こえなかった。黒い三つ編みとビン底メガネのラケルタが、お待たせ、といってイヴに指をからませる。背後からはのっぽのアイバンがサイレにむかって手をあげた。
「悪い、こっち長引いて」
「サイレ、待たせてごめんなさい。おなかすいてない?」
ラケルタがさしだしたチュロスを、サイレは無造作に折って口に放りこむ。
「ラケルは聞こえた? アイバンは?」
「なにが?」
「ねぇねぇ、こういうのどう?」
イヴは踊るように、三人のまえに出た。「知ってる? 〈つくられた楽園〉って、もともと特別な動物のための檻だったの」
「〈最後の竜〉でしょう? ほかの恐竜は大昔に滅びたのに、一匹だけ長生きしたのよね」
「トリゴナルKは、お父さんが〈竜〉のために設計したんだって。〈竜〉の長い首に合わせて、なるべく天井が高くなるように。だけど〈竜〉は、古代からずっと生きてたのに、トリゴナルができたあとたった四十五年で死んじゃった。檻の設計が恐竜の生態に合わなかったんだっていわれてる。お父さんも本当にがっかりしたって。今の〈つくられた楽園〉は抜け殻も同然だって」
イヴ・クロカワ。それが彼女の名前だった。クロカワのKはトリゴナルKのK。タカアキ・クロカワはイヴの養父であり、トリゴナルKの市長で建設時の筆頭設計者だ。独身を貫いてトリゴナルKの設計に人生を傾けた偉大なるエンジニアは、トリゴナルの運用開始後の調整が終わり、メンテナンス・システムも十全に構築したあと、八十五歳で小さな女の子を養女に迎え、トリゴナルに注いできた愛情のすべてを今は彼女——イヴに注いでいる。九十歳をすぎていたが、医学の進歩のおかげか今も健在だ。
クロカワ市長の愛情を一身に受け、イヴは屈託なく育った。
「だからね。サイレが聴いたのって、〈竜〉の歌なんじゃないかな」
ときに、屈託がなさすぎるほどに。
「またイヴのスピリチュアル談義が出たよ」
アイバンが口をはさむ。「人類がトリゴナルに引きこもって、天候も何もかもコントロールする時代に〈竜の歌〉って」
「きっと死んだ〈竜〉は今もここにいて、サイレみたいな子にだけ聞こえる歌をうたってるんだよ」
「おれみたいな子って?」
「感受性が鋭い子とか」
サイレにはコメントのしようがなかった。
「じゃあそれはそれでいいとして、なんのために歌うの」
「それはぁ、なにかを訴えてるんだよ」
「なにを」
「たとえば……古い恋の思い出! とか」
「それをおれに訴えてどうするの」
「思いだしてほしいんだよ!」
「おれが〈竜〉の恋人なの?」
「あっ、それいい! サイレは遠い昔に死んだ恐竜の生まれ変わりでぇ」
サイレはこのへんにしておくことにした。スピリチュアル・ファンであるイヴのスピリチュアル談義には天井がない。ラケルタはイヴのいちばんの仲よしだったが、かたわらでそんなイヴを見守っていて、いつも何もいわずほほえんでいる。
「そろそろ、行きましょうか?」
するとイヴもあっさり夢物語をやめて、親友の腕に抱きついた。二人はアカデミア入学以来の親友だ。
サイレたちの通うアカデミア・ウニヴェルシタは放課後。ようやく授業から解放された学生は、アルバイトやクラブ活動への移動中、はたまた何か用があるでもなくただ集まってのおしゃべりと、思い思いの時をすごしている。
ざわめく展望エリアを抜け、高速エレベータ乗り場へ。トリゴナルKの最上階である第十二階層の乗り場は、大きなガラスのドームになっていて、中に入ると人工太陽の光がさんさんと降り注いでいた。まぶしい光の下、人々がせわしなく行き来している。
各層に巨大なビルがいくつも立ち並ぶ大規模トリゴナルでは、ひとつひとつの階層がとてつもなく広大だ。人間用、乗り物用、貨物用、VIP用と、用途ごとに分けて各階に輸送する高速エレベータなしでは、トリゴナルの生活は成り立たない。入口ゲートでアカデミアの学生IDを認証させ、個室リフトに乗りこむ。パネルで行き先を第五階層に指定、シートベルトを締めれば、ものの数十秒で目的階まで運んでくれる。
「そういえばイヴ、あの話聞いた?」
「できないー」
シートベルトに手こずるイヴを、ラケルタは手伝った。留め金がぱちんと音をたてると、同時にリフトが稼働した。
「今日、女声パートに新しい人が入るらしいの。ギルヴィエラが話しているのを聞いたって。トリゴナルBから移ってくるんですって」
急速に高度が変わり、耳がきんとする。高速エレベータのリフトはガラス管の中をすべっていく空気の玉にも似て、周囲の風景はシースルーだ。が、あまりにも高速なので、風景を楽しんでいる暇はない。ひと言ふた言かわす間に、ガラスのむこうのカラフルな景色が、文字どおり飛び去っていく。
「Bから? それってどういう物好きよ?」
トリゴナルBは、十大トリゴナルには含まれない小規模トリゴナルだ。全人口の〇・二パーセントの人々で五十パーセントの富を独占する、セレブ限定トリゴナル。聞くところでは、観光客の受け入れすら徹底した審査を行い、万国長者番付のベスト一万位にランクインしないと入場もできないという。
「きっと、ほんとうに歌が好きなのね。きょう移ってきて、まっ先にわたしたちの練習を見学にくるそうだから」
「お父さんとっても喜びそう。そういう人がいっぱいお金もってトリゴナルKに来てくれれば、アカデミアにも団にももっと予算が下りて、もっといい文化トリゴナルになるっていつも言ってる」
「叔父さんも、学問や文化の興隆には金が必要、が口ぐせ」
「ほんと、サイレって叔父さん好きな」
「好きというか。部屋によく行くだけ」
「それって大好きじゃん。俺んとこは厳しいんで、なるべく遭遇しないようにしてる」
「——心臓が」
チャイムが鳴り、リフトが静止した。「『うごいてる』って思うんだ」
「とれないー」
またしてもシートベルトに引っかかるイヴに、はいはい、とラケルタが手を貸した。
高速エレベータ乗り場を出れば、すぐ正面にレトロなファサードがそびえている。玄関の上から伝説の生き物ガーゴイルが見守るこの建築が、トリゴナルKが誇るコンサートホール〈オペラ〉だ。ずっと昔、トリゴナル以前の時代は乾いた陸地のうえにあった。今は全長の半分くらいまで〈毒の海〉に沈んだトリゴナルのへそにあたる第五階層の中心部にあって、みかけだけはかつてと同じアパルトマンに囲まれている。
ガーゴイルを尻目に守衛AIにあいさつして中へ。ただし守衛AIは飾りで、本当のセキュリティシステムはトリゴナル全体に敷かれた監視体制だ。市長から許可を受けた団員や、臨時パスの発行を受けた観光客以外が入場すると、即座に通報される仕組みだった。
ガス灯を模した電子照明の光のなか、サイレたちは大理石の階段をのぼっていく。光量は極端に絞られ、ホールのレトロ感を演出している。
休日ともなれば各地のトリゴナルから観光客がつめかけるこの場所を、サイレはくりかえしの日常に対する無感動さで訪れる。アカデミアに入学して五年、ここに通うようになって五年。この日も、サイレにとってはそんな日のはずだった。すれちがった観光客が、サイレをみて黄色い悲鳴をあげる。サイレは黙礼し、イヴとラケルタに続いた。
弾む足どりのイヴが、踊り場に飛びのった瞬間。けたたましい警報音が、階段ホールに鳴り響いた。不快な音がこだまして、耳を圧迫する。
「イヴ?」
「ちがうもん!」
「不審者かしら」
すがりつくイヴをラケルタは受けとめ、同時に彼女のビン底メガネが、吸い寄せられるように階段を下りていく。
入口の扉が開き、人工太陽の光が階段ホールにさしこんできた。光のかたまりを割って、華奢な黒い影がひとつ。反射的に、サイレは階段を駆け下りた。最後の数段はジャンプして、その影のまえに着地する。
逆光。つくづく、外の人工太陽の光量に比べ、ホール内は暗い。
「サイレ?」
あやしむイヴの声は、警報音にかき消された。
顔をみようと近づいていき、サイレは相手を壁に追いつめた。なぜなら、彼女の眼を——赤に近い色素のうすい瞳を、長い髪をみたサイレの心臓が「うごいた」。
うるさく脈打ちだした心臓が、サイレを駆り立てる。
「——きみは誰?」
ひどく蠱惑的な、これまでサイレが関わった女の子たちの唇はみんなにせものだったというような唇が、軽く引きあげられ、
「——」
返された言葉は、警報音にのみこまれた。
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