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07. 最初にして最後のデート<2>
〈話があります。今日の帰り、少しだけ時間をもらえますか? ラケルタ〉
友人からのメッセージに気づいたのは、練習が終わって端末を確認したときだった。
珍しい。最初に思ったのはそれだった。ラケルタはイヴの親友だから、サイレともよく一緒にいるが、ラケルタがひとりでサイレに接触してくることはまずない。だいたいひとりで突っ走るイヴのかげにいて、イヴとアイバンとサイレをまとめて見守っているという感じだ。
しかし、気がすすまなかった。今もまだサイレの脳裏に、○○の姿が焼きついている。実をいうと、何をするにも力がわかず、練習に出るのも億劫だ。だが、かといって黙ってじっとしていると、却って姿がよみがえり、吐き気をもよおす。古代世界を駆けめぐる○○の姿を思いだせば、駆け抜けた先に待っていた男の存在も思いだしてしまう。
たとえ叔父の研究がすすんで○○とサイレの世界をつなげることができたとしても、○○がサイレの手をとることはないとしたら。そこまで考えると、サイレはまた嘔吐感と戦うはめになる。これが恋なのだとしたら——○○の恋とは、えらいちがいだ。
ラケルタは心やさしいイヴの親友、大胆な部分を親友にぜんぶ奪われているような少女。
けれどサイレは、ラケルタとふたりで会うことが、怖い気がした。端末のメッセージをみつめながら逡巡するサイレの背後に、本人がいた。
「ごめんね、急に」
ラケルタは申しわけなさそうにサイレを見ていた。サイレはメッセージを閉じる。
「どこで話す?」
「どこでもいいの、そのあたりで」
「〈ラ・メール〉で!」
ラケルタの背後から、イヴが顔を出した。「第六階層の〈ラ・メール〉で!」
「イヴも来るの?」
「来ないよ! でも〈ラ・メール〉で!」
「あ、そう。じゃあ行く?」
お願いします、と三つ編みの少女はいう。ぶ厚いビン底眼鏡の奥は見えない。彼女の瞳はうかがいしれない。でもなぜか、なじられているような気がした。サイレがまちがっているのだと言われているような気がした。
何を話してもまちがえる気がして、サイレはひと言も話さないまま、彼女と連れだって歩いた。ほかの女の子であれば、適当に相づちを打っていれば、勝手に自分のしたい話をし、自分の聞きたい答えを受けとってくれる。
けれどラケルタは、なにも話さなかった。話があるといったのはラケルタなのに、彼女はまったく口をきかないまま、サイレも黙ったままで、第六階層の高速エレベータ乗り場を降りた。
カフェ〈ラ・メール〉。いま第六階層まで〈毒の海〉に沈んでいるトリゴナルKの、第六階層上部強化ガラスぎわに設置された喫茶スペースで、アカデミアの学生にはおなじみのデートスポットだった。サイレも何度か来たことがある。
外観はなんということもない商業ビルだが、内部に入ると視界が変わる。下半分が青、上半分が白く塗り分けられる——つまり〈毒の海〉と空の境界部分を楽しむカフェだ。
トリゴナル外の時間帯や天気によって、内部の照明が変わり、雰囲気が変わる。今の時間帯は天気のいい夕方だったが、まだ水に夕方の色合いはない。〈毒の海〉特有の透明な水色が視界の半分を埋め、その境目には波が揺れていた。
アカデミア生らしき連中の注目を浴びながら、サイレとラケルタは黙ったまま着席した。給仕AIが注文をとりにきたので、ふたりともコーヒーを頼んだ。
「忙しいときに、ごめんなさい」
ようやく、ラケルタが口をひらく。
「いいけど、どうしたの」
「シファ・アーマディーとは、二人で会わないほうがいい」
サイレの心臓が反応した。
「イヴに言われた?」
「わたしもそう思うから言っているの。おかしなことを言っていると思うでしょうけど、本当よ。まずは正面からお願いしてみようと思ったの」
さすがにラケルタは良心的だ。当日に前触れなくなにか仕掛けられたら、シファにも迷惑がかかる。
「ありがとう、ラケルタ」
「でも行くのね」
「きみはいい友達だ。おれのことをよくわかってる」
「わかっているかもしれない」
ラケルタはまたわずかにうつむいた。「でも、あなたをうごかすことはできない」
「悲しまないでほしいけど」
「むりね」
サイレはうすく笑った。こんなとき、女の子たちは怒りだす。そして、なんらかの反撃をして、サイレのもとから去っていく。
が、ラケルタは去らなかった。うつむきかげんの彼女の眼鏡が傾いて、少しだけ表情がうかがえた。でも相変わらず、ぶ厚い眼鏡が彼女を隠していた。
給仕AIがコーヒーを運んできた。ふたりのあいだに漂うコーヒーの香りと、かすかな湯気。ふたりは何も言わずにコーヒーを口に運んだ。
ラケルタはふと顔をあげて、ガラス窓から〈毒の海〉をみやった。サイレもつられて毒の水に目をやる。店に入ったときは特有の毒々しい水色をしていた海は、コーヒーを飲んでいるうちに暗くなってきた。一方、空のほうは徐々に赤みを帯びていく。
店内のアカデミア生たちは歓声をあげた。この色の変化こそ、カフェがアカデミアの女子に人気を集めている理由、有名なデートスポットたる理由だ。昼は水色、夕方は水が黒で空は赤、夜は空が黒くなり、外壁がライトアップされればふたたび水は青く光る。
「ラケルタはこういうところ興味あるの?」
「何年生きていても、空や水の色の変化は胸を打つわ」
「何年って、十六年でしょ」
サイレはくすりと笑みをもらす。
「サイレはどう?」
尋ね返されるとは思ってもいなかったので、サイレは首を傾げた。
「こういう赤や青や藍に、心うごくことはある? 若い男性は、これそのものには興味をもてない?」
「『これそのものには』?」
「一般論だから、気を悪くしないで。風景そのものには心うごかされなくても、意味には興味をもてるかもって。たとえばトリゴナルなら、ここはまさに象徴的ね」
ラケルタは、自分のすぐ横の強化ガラスに触れた。うっすら赤みを帯びた空と、黒い海の境界を、指先でなぞってみせる。
「こんなところまで〈毒の海〉は人類に迫っている。放っておけば、わたしたちはこの下に沈んでしまうはずだった。けれど人類はトリゴナルを築きあげ、〈毒の海〉に抵抗しつづけている。いうなれば、わたしたちを取り巻く環境への抵抗、あるいは支配が、成功しているということ。それを象徴するのがこの〈ラ・メール〉の演出」
「そういうことに興味をもっている男を、ラケルタは知っているってこと?」
彼氏? サイレは尋ねる。
「そんなのいないわ」
「じゃあ元彼かな」
ラケルタはコーヒーカップをおいた。サイレの態度に、ラケルタは明らかに気分を害した様子だったが、何も言わなかった。何も言わずに、カップのコーヒーを飲み干した。
「おかわりいる?」
「いいえ」
ラケルタは、AIに合図を送ろうとしたサイレを制止した。
「まだ何か話したい?」
「いいえ」
「じゃあ帰る?」
彼女はうなずいた。ものいいたげな眼鏡が、サイレを見ていた。
「ごめんね」
ラケルタは、大事な友達の一人だった。傷つけたくはなかった。けれどサイレには、できることは何もなかった。
(○○、きみならどうする?)
サイレは、彼女が出会った何人もの大切な人をなにもできず失ったのを、つぶさに目撃してきた。そしてその末に恋と出会い、彼が誰だろうと関係なく飛びこんでいったのを。
何が誤りで、何が正解なのか。○○にはわかっていなかっただろうし、サイレにもわからない。
(シファ、あなたなら?)
その名前を胸に抱いただけで、どくり、とサイレの心臓がうごきだす。手首の端末を起動し、カレンダーを立ちあげる。手の甲のうえの空間に、予定表のホロが投影された。
〈現在の時刻 一〇月〇二日 午後一八時三九分〉
〈十月六日 シファ 遊園地 十一時 四層エレベータ前〉
〈十月十八日・二十日・二十二日 クラブ定演〉……
オペレッタクラブ秋季公演の本番が近づいている。○○に歌を聞かせたい、そう思っていたこともあったが、もはやその気持ちはない。
(万が一、叔父さんがなんとかして、○○に歌を聞かせることができたとしても)
サイレは、ラケルタとともにカフェ〈ラ・メール〉を出た。(あの人は、あの男のもの)
きっと、自分で歌うことなど、想像もつかないような男。帝王アルキス一世。全トリゴナルの歴史教科書に大きくとりあげられている、古代の王者。世襲で帝王になりながら、同時に改革者でもあったというのが定説だ。
知名度だけなら、サイレも今のトリゴナル内でなら負けてはいない。が、あちらは歴史の洗礼を経てなお名を残している。一方のサイレは、星〈メモリア〉の一件で一時的にもてはやされているだけ。
もしも、いま目の前に○○がいて、それが恋を知るまえの彼女だったなら、振り向いてもらうためになんだってするのに。バルコニーの下で歌だってうたってやる。
でも、○○はいない。彼女は人のもの。また嘔吐感がこみあげてきて、サイレは口をふさいだ。
とん、とラケルタがサイレの肩に触れる。なぜだろう、そのときすうっと心地よいものがサイレのからだを通り抜けた。
「さよなら、サイレ。また明日」
いつも彼女がイヴにしているように、やさしく気づかわしげな声だった。
「また明日」
手を振って、ちがう方向に別れていく。
ふたりの明日が交わらなくても、明日また会える。それが、不思議にうれしかった。
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