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07. 最初にして最後のデート<8>
「よくやったわ! マネージャー」
「イヴさまのおほめの言葉が私どもの喜びです」
アイバンはわが目を疑った。
いまサイレたちを見守るのは、〈ワールド・アトラティカ〉の上空、つまりトリゴナルK第四階層の天井に埋めこまれた鳥瞰カメラだ。何倍にもズームされた映像は、園内の路上のそこここから湧き出た水が線を描いて、スタッフとの連携プレイでみごとサイレとシファを分断、引き離すところを見た。
「このままはぐれたっきり二度と会えずに帰っちゃえばいいのよ!」
「いやいや子供でさえ端末で連絡とるから。待ち合わせればいいだけだから」
アイバンがツッコミを入れると、
「マネージャー! 園内に電波障害起こして端末にアクセスできなくしてちょうだい」
「申しわけありません、イヴさま。それは完全に『黒』でございまして」
「それなら仕方ないわね! とりあえず、経過を見守るわよっ」
できないとは言わないのが怖い。イヴとマネージャーとアイバン、それにもはやひと言も言葉を発さなくなったラケルタは、視線を端末に戻した。
こんな熱い視線で見られているのを知ってか知らずか——イヴがコールしたというからたぶん知っているはずだが——、サイレは監視カメラを探すそぶりもせず、ひとりスタッフの誘導にしたがって水から離れていく。すぐに端末を起動するかと思いきや、まったくコールする様子はなく、休日のテーマパークをひとり行く。
なにを考えているかわからない友人はさておき、〈ワールド・アトラティカ〉はみるみる変化していった。
「おおー……! こりゃスゲェ……」
「そうでしょうそうでしょう?」
マネージャー、にっこり。「これがイヴさまのお父さま、タカアキ・クロカワさまが大いに苦心された水のアトラクションなんですよ。この鳥瞰カメラだと、園内になにが起こっているかよくわかるのですよ」
最初は、細い水の筋が描かれただけだった。それがサイレとシファのあいだを分断した。
しかし、細い水の筋は、次の瞬間には園内全域に描かれていた——あたかも、網で覆われたかのように、たくさんの水の筋が園内を覆っていた。そこにいる客たちを器用にかわし、客たちを逃れさせながら、水の筋は徐々に太くなっていく。筋は、あっというまにちょっとした運河になった。運河はまた徐々に太くなっていき、やがて陸地のほうが少なくなり、園内は水に浸された。
客たちはといえば、そのころには各所に点在するアイランドと呼ばれる浮島や球形の自動ボートに乗りこんで、すっかり変貌したテーマパークの光景を楽しんでいる。事前に予約しておけば、〈海賊船〉と呼ばれる豪華客船で優雅にランチをとりながら、園内が水に埋まっていくのを見物することができる。もちろん、宿泊も可能。次に水が引くのは翌早朝だ。マネージャーは意気揚々と説明する。
「海っすか」
ホロで何度も見た、昔の海。明るい日ざしのなかで輝く群青の水面。たとえそれが実際には人工物で、単なる巨大な水たまりにすぎないのだとしても、トリゴナルに閉ざされて暮らす人類にとって、たしかにアトラクションにちがいない。
「アイバンはアカデミアに来るまえ、トリゴナルAにいたのよね。あちらでは聞いたことなかった?」
ようやく、アイバンの存在を思いだしたというふうのラケルタが、いつもの穏やかさで言った。
「トリゴナルKには、これを見にくる人も多いのよ」
「ラケルタもたしか……」
「ええ、わたしも。五歳のときに両親が、トリゴナルKのことを知って移住を決めたの。いちばん大きいのはやっぱりアカデミアの存在ね。両親とも研究者だから、子供をすばらしい場所で教育したいと思ったの。もうひとつは、トリゴナルKの『遊び心』」
「さっすがラケルのお父さんお母さんだよー! わかってるー!」
きゃあ、と声をあげて抱きついたイヴを、ラケルタはいつものように受けとめた。
「移住したその年のうちに、トリゴナルKの名所は全部行ったわ。〈ワールド・アトラティカ〉も。高速エレベータに乗って端から端まで。最下層の墓地だって行ったわ。それだってトリゴナルKの重要な施設だから。市民動物園。あのとき、〈竜〉はまだ生きていた。……死んでしまったけれど」
いったん声のトーンが落ちて、ラケルタは切り替えるように顔をあげた。
「〈ワールド・アトラティカ〉の〈アトランティスの時間〉には感動しました。まるで本物の海のようだと思いました」
マネージャーにむかってそう告げたあとで、あ、と口をおさえ、
「もちろん、ホロや夢でみた海……という意味ですけど」
「トリゴナルに住む者はみな、自分の夢のなかに本物の海をもっている。私どもはそう考えております。それを現実に、というのが当園のコンセプトでございます」
「今でも、ひとりでときどき来るんです」
「ええーっ? 一緒に来ようよー」
「ごめんね、イヴ。わたしだけの大切な時間だから」
「残念。でも、すてき!」
イヴは満面の笑みになった。こういうときの彼女は、まごうことなくかわいらしいのだが、いつもこうではない。
「まさしく。当園といたしましても、ラケルタさまにそう言っていただけて、まことに光栄のいたりでございます」
「あ」
アイバンはつぶやく。
「なぁにアイバン」
「サイレどこ行った?」
園内の監視カメラは階層の天井に埋めこまれた定点カメラだ。先ほどから見ていた監視カメラの鳥瞰映像に、もはやサイレの頭はみあたらない。
「大丈夫! そんなこともあろうかと」
イヴは端末をとりあげて操作する。「サイレの端末にマーキングしてあるからぁ」
カメラを切り替えた。映像が、現在の端末を見下ろす位置に移動した。
そこは、青い水の底だった。ラケルタは音をたてて椅子から立ちあがった。
「あいつ、端末水に沈めやがった!」
よく見ると、映像のなかに、水のなかを落ちていくリスト型端末がみえるのだった。やがて端末は視界の外に消えていき、同時に底のほうから魚の群れが巻き起こった。人工の海に魚が放たれたのだ。
「うわっ魚? 本物?」
「もちろんでございます。当園の人工海にいる魚は、トリゴナル移住時に保存されていた生物種の遺伝子情報から再生された、正真正銘かつて海にいた本物の魚でして。かつての海ほど豊かな生態系とまでは申せませんが、自動ボートで潜水すれば、海中を優雅に行き交う魚影をお楽しみいただけます」
「すげ……って、あのセレブ野郎! 端末一台いくらすると思ってんだよー!」
アイバンは頭を抱えて、かたわらのラケルタを横目に見た。みるみる顔色が白くなっていったと思うと、ラケルタはいきなり、部屋を飛びだしていった。
「ラケル!」
「おい、飛びだしたからってサイレの居場所がわかるとは限らない、むしろ海があるからよけい探しにくい。ラケルタも端末もってるんだろうから、俺たちはここに残ったほうがいい。定点カメラを切り替えて探そう」
「アイバン……ありがと!」
イヴはアイバンの腕に抱きついてきた。たまには役得。
「ごめんねマネージャー、お父さん! この海、じゃまー!」
「そんなぁイヴさま」
狭いアイランドの人混みにまぎれながら、サイレはようやくあたりをみまわした。
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