01. 〇・〇〇〇〇〇〇〇〇五パーセントの少年<4>

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01. 〇・〇〇〇〇〇〇〇〇五パーセントの少年<4>

 大粒の水滴が額に落ちて、はねた。  サイレは天井を振りあおぐ。人工太陽がシャットダウンされたあとの時間、曇りの夜を模した灰色の天井は、ビルや住宅のあかりでわずかに明るい。  天井には無数のスプリンクラーがあるのは確かだが、肉眼でノズルを確認できるほど各層の天井は低くなかった。なにも知らない子どもなら、この天井がほんものの空だといわれれば信じてもおかしくない。  トリゴナルKの初等教育は、トリゴナルの構造解説から始まる。エレメンタリー(初等科)以上の子どもであれば、だれでもこの空がにせものであることを知っている。降ってくる雨のほうは、一応ほんものだということも。 (ランダムの、ぬるい雨)  サイレは小走りに家に急いだ。なまあたたかい雨が、ぽつ、ぽつ、ぽつ、と降ってくる。この雨は、今しがたトリゴナルの外で降っていたもののリサイクルだ。強化ガラスの外壁に降り注ぐ雨を貯水槽に集め、天井のスプリンクラーでトリゴナル内に散布する。降りはじめと降り終わりに多少誤差はあるが、降水量や強さ、風速などは外を模している。トリゴナル内の天候と時刻は、おおむねガラスの外と連動していた。 (外、みえないな)  第十一階層は〈毒の海〉に沈んでいない。階層内を遠く見渡せば、強化ガラスを通して外界の空の色がみえる。が、人工太陽がいま光を失っているように、トリゴナル外も夜をむかえて暗く、なにもみえない。  不思議なもので、この雨によって生まれた〈毒の海〉が人類をガラスと鉄骨の内部に追いこんだというのに、雨水自体に〈毒〉の成分は含有されていない。雨が降って、小さな水たまりをつくり、池になり、湖になり、広くこの星の大地を浸して海になったとき、はじめてこの水は〈毒の海〉と呼ばれる。 「サイレです。遅くなってごめんなさい」  自宅のアパルトマンに着き、呼び鈴を押す。ロック解除音を待って玄関扉を開けると、女性がホールの階段を降りてきた。 「おかえりなさい。雨は大丈夫だった? 歌の練習、疲れたでしょう。いま夕食あたためるから」 「友達と食べてきたので」 「そう、楽しかった?」  はい、と答えて頭を下げ、離れにむかった。中庭からつづく離れには、鍵がかかっていない。ガラス扉を押すと、心臓が、とん、とん、と穏やかな鼓動をはじめる。うしろ手に扉を閉め、慣れた足どりで部屋の奥へ。ガラス越しにさしこむ中庭の光を頼りに、室内に散乱するものを避け、迷いなくスイッチを押す。  暗闇に、星の光がともる。  ゆるやかに回転しはじめた、無数の粒状の光。かすかな安堵の息とともに、サイレはその場で座りこむ。いちど目を閉じ、それから開けたサイレの目の前を、小さな光が横切っていく。  近づいては離れ、ともっては消える、白や赤の光の粒。中心の一点だけが、動くことも、明滅することもしない。この光が、サイレのいる星バトロイア。バトロイアは淡い青色、これはこの星を浸す〈毒の海〉の色だ。  無数の光は、天上の星々をあらわしている。あるものは永遠にサイレたちの周囲を回転しつづけ、またあるものはいつの日か墜ちていく星々。この装置は要するにホロ映像の一種で、プラネタリウムとのちがいは、エンターテイメント性を排し、ひたすら正確に星の位置を再現している点にある。  すなわち、この世界に生きるもの、すべての運命を。  サイレはボタンを押し、表示を切り替えた。室内に展開された満天の星空が消えて、わずかな光だけが残る。その数、ほんの数十。  夜空にたったこれだけしか星がなかったら、どれほどさびしいことだろう。といっても、強化ガラスの内側で暮らすサイレには、ほんものの満天の星空など一度もみたことがなかったし、叔父やその同僚もそれは同じだろうけれど。〈星〉を観察して暮らす歴史学者といえども、トリゴナルの中で生きる人々に例外はない。  サイレはまた表示を切り替える。ばらばらの星から光る線がのびていき、たがいにつながった。あるいは、緑色の曲線が、ばらばらの星たちを囲む。どちらも、便宜的に星どうしの関係を示したものだ。  サイレは気づいた。どの星とも結びつけられていない星が、ひとつ。サイレはその小さな光を、てのひらで包みこむ。 「俺にも運がむいてきた!」  扉が乱暴に開け放たれ、サイレは手をひっこめる。室内灯が最大出力で点灯し、部屋が明るくなった。部屋の隅々まで照らされ、散乱するゴミやら道具やらが姿を現す。さびしい星々と孤独な星は、たちまち強い光にのみこまれた。 「お、サイレ。本当に〈立体天宮図〉好きだな」 「おかえり、叔父さん」  叔父、オルドネア・モリソン。サイレの母である女性の弟であり、アカデミア・ウニヴェルシタ〈万国学術院〉歴史天文学研究所所属の歴史学者だ。いちおうアカデミアにポストを与えられているが、そもそも研究者の給料は潤沢とはいいがたいうえ、もらったはなから仕事道具やら謎の雑貨やらにつぎこんでいるので、実質的には姉の夫に養われていた。 「いいモノに気づいたな、サイレ」  サイレはどきりとする。「見覚えのない星があっただろ」 「あった」 「素直でいいぞ。教えてやろう。あれな、入力したての星〈メモリア〉」 「新発見の?」 「発見されたてほやほやの、誰にも『ひらかれ』ていない星〈メモリア〉。発見した天文学者が、まさに今日、自分のみつけたメモリアごとトリゴナルKに移住してきたんだよ。しかもトリゴナルBから。物好き様々だな」 「メモリアの発見者はシファ・アーマディー?」 「お?」 「〈毒の海〉みたいな瞳をした女のコ」 「そうそう、なんで知ってる」 「彼女は今日、団のパトロンになったんだ。なんでおれたちとそんなに歳変わらないのにパトロンになれるのか不思議だったけど」 「アーマディー女史は金あるよ。なんたって歴史天文学史上唯一、メモリアをひとりでいくつも発見してる大天才だからな。おかげで俺も、長いあいだ歴史学者やってて、はじめて歴史を〈掘り進む〉機会に恵まれたってわけさ。——とはいえ、だ」  叔父は室内照明を落とした。先ほどサイレがつけたままの〈立体天宮図〉が、暗がりのなかでもういちど力をとりもどす。 「適合者がいなければ、メモリアはその歴史をひらかない」  叔父はサイレがやったように、ひとりぼっちの新発見メモリアの光をなでる。「ひとつのメモリアの適合者は、世界にたったひとり。少なくとも、今はそれが定説」 「ひとりって、そんなの無茶でしょ」 「その無茶を達成するのがメモリア解析のキモで、すべてなんだよ。それさえすめば、あとはメモリアが見せたいものをただ見ていくだけで、そのメモリアの持ち主のライフヒストリーを通して歴史の一角に光があたっていく。一角に光をあてることを何度もくりかえせば、やがて世界じゅうが光で照らされる——それが俺の、いやすべての歴史学者の野望なのさ」 〈立体天宮図〉が、まわりだす。  星々がめぐっていく。叔父と、天文歴史学史の希望をのせて。  その片隅で弱々しい光を放つ、今はまだひとりぼっちの星。この星も、やがてそんな希望と野望を抱く人々の手によって、歴史に組みこまれていくのだろう。 「途方もない」 「途方もないなぁ」 「要するに、どこにいるかもわからないメモリア適合者を探して、叔父さんたちはこれから実験をくりかえすんでしょ。理解できない」  サイレはただ、その星をみつめつづける。 「叔父さんってマゾ」 「言えてるなぁ」 「おれにはムリ」  サイレは断言する。「世界にたったひとりしかいない人を、どこにいるのか、本当にいるのかもわからないのに探しつづけるだなんて」 「おっ、青春だなサイレ」 「からかわないで」  悪い悪い、と、とてもそうは思っていない様子で、叔父はまた室内灯をつけた。 「俺は十億人のうち十億人にとって簡単なことなんか、やる気がしない。『たったひとつ』をみつけることにこそ燃える。俺が思うに、たぶんサイレもそうだよ。一回、試してみたらいいんじゃないか」  そう言って、叔父はデスクの上に散らばったゴミやらホロ装置やらを、腕で無造作に払い落とした。もちろんホロ装置は決して安価なものではない。サイレは思わず、うわっと悲鳴をあげ、すんでのところでキャッチした。 「まだこれから仕事するの?」 「ああ、明日からメモリアの適合実験が始まるからな。いろいろ申請出さないと。適合実験だけどな、まずはラボの関係者からあたる。それが終わったら、次はアカデミア内で募集かけて、その次は一般。そんな感じで範囲を広げていく」  叔父はイスに腰かけ、サイレに視線を投げてきた。「サイレも来たい? 関係者枠」 「来たくない」 「即答か」  サイレはホロ装置を叔父の机に転がした。叔父はまた笑って、手首に巻かれた端末のスイッチを押し、書きかけのファイルを開く。  サイレは踵を返し、明るくなりすぎた部屋を出た。
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