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08. 運命を曲げ、従わせる者<3>
「見ちがえたぞ、エンジュ」
アルキスのまえに導かれたとき、エンジュは不慣れな長い衣を引きずっていた。
あまりにもやわらかい肌触りをした布地がくすぐったい。いつもアルバ・サイフを引いている両手両足が軽すぎて、エンジュはしきりと衣をもてあそぶ。衣をうごかすたび、衣に縫いつけられた無色透明の石がきらめく。衣にたきしめられた香りがやたらとたちのぼってくるのも、少女は理解に苦しんだ。
「そなたには、刃よりもやわらかいものが似合う。娘とはそういうものだ」
「ティンダルの娘は刃で戦う」
「しかし今は滅びた。最後のティンダルは、新しい生き方を生きよ」
「まだよ。まだマリオンがいる。ティンダルを滅ぼした張本人でも、マリオンはティンダルの馬。マリオンはどこ?」
脳裏に、黄金のたてがみがひるがえり、笑声がよみがえる。
——喜びを知ったあなたを、わたしは絶望の淵に叩き落として、それから終わりにする。……
マリオンとの戦いは、まだ終わっていない。
「私には復讐しないのか? エンジュ」
「復讐じゃないわ。マリオンは敵よ」
「ティンダルを滅ぼしたのは私だ」
「あなたは敵じゃない」
「わからないな」
青年は降参とばかりに両手をあげた。
「あなたにはわからない。あなたはわたしではないし、マリオンでもない。わたしたちは同じもので、あなたはちがうものだから。だからわたしは、あなたと一緒に来た」
「おいで」
さしだされた手を、迷わずとる。アルキスのとなりに立って、彼に導かれるまま進む。
帝王一族専用の浴室は、樹上城のふもと、いつかエンジュがユーダたちと踊ったあの広場に面していた。
石段を一段一段下りていくと、そのむこうの広場に女たちが何かをまいているのがみえた。それは赤く染められた鳥の羽だった。うながされ、その羽毛を布の靴で踏みしだく。即席の絨毯をうえを、エンジュは歩いた。
——運命を曲げ、従わせる者よ。
だれかが叫んだ。それに続いて、広場の人々がそれを唱和する。
——運命を曲げ、従わせる者よ。
アルキスはこたえて手をあげる。
「私の呼び名だ。そなたもこたえてやってくれ」
いわれるまま、つないでいないほうの手をあげる。息をのむような歓声と、
——運命を導く舞手よ。
というひと声。
「名をつけられたな。そなたの舞は、見事だったようだ。民はそなたを覚えている」
アルキスはあの舞のことを知っている。あの日、腹心の友ザイウスはアルキスを裏切ったのだから。
アルキスはとなりで笑っていたが、エンジュは笑えなかった。手を下ろし、仰々しい呼び名で自分を呼びつづける人々から目を逸らした。
ふたりは人々から離れ、樹上城の根元に入っていった。広場がもとどおりの喧噪になるのを背に、ティンダルの住居ほどの大きさの籠の中へ、エンジュは導かれた。ふたりと一匹が中に入り、入り口が閉ざされると、籠はうごきだす。
「民のまえで目を逸らすな。いつも顔をあげていよ」
エンジュは目を伏せた。
「わたしの舞はあの名前に値しない。もう踊らない。絶対に」
「そなたの舞を見られないのは残念なことだ。が、私は舞が見たいのではない」
「わたしは何をすればいい?」
少女は涙をたたえてかたわらの青年を見据える。たったひとつ残されたのは、目の前の青年だけ。
富める帝国の王、自分が殺した男の友、故郷を壊した男、自分のやわらかい感情のすべてを捧げた男。
丈夫な葦を編んでつくられた籠に、光がさしこんでいる。光と振動とが、自分たちの位置の上昇を知らせてきた。以前も死んだ男に連れられて乗りこんだはずだが、あのとき完全に意識を失っていたエンジュは何も覚えていない。
あのときよりも高く。この籠は行く。
——行く先になにがあるのか、何もわからなくても。
青年は手をのばして、指先でエンジュの涙を拭った。
こんなとき、やはり夢の中の少年と、目の前のこの人が同じ人物であることを思う。
「いずれわかる」
アルキスが答えたとき、籠はとまった。「おいで」
ふたたび手に手をとって樹上城のうえに降り立つと、そこには広大な空間があった。
頭上はぽっかりと開いている。頭上高く生い茂り、この空間を囲っているのは、木の葉——梢だ。葉群の中心部は広く開いていて、そこに群青の空がのぞいていた。
以前、樹上城にのぼったときは、パンタグリュエル邸にいた。樹上城の内部にあって、大樹の幹をくりぬいてつくられた数多の住居のひとつだ。だから、調度は上質であっても、広い空間はなかった。あるとしたら、絶壁の先にあるものだけだ。
だが、この場所は梢につつまれている。根元へ落下するためには、あの枝を越えていかなければならない。
梢に守られた広い空間。
「〈樹上〉、〈城〉……」
「そうだ。ここが、この頂点」
エンジュは視線を下げ、周囲を見渡した。まるい空間を守るようにそびえる梢の下、平らにならされ磨かれた、広々とした木の床が横たわっている。
布靴で歩いても、ささくれひとつ残っておらず、やわらかささえある感触。まさにここが大樹の中に築かれた城であり、この場所がその頂上であり、帝王のためにつくられた場所なのだと、エンジュにもわかった。
もう一度、空の青を見上げる。まるい天空の眺めだ。帝王にだけ許された、樹上の光景。
「そなたのものだ」
「わたしの?」
「そなたにやる」
世界にふたつとない光景、ふたつとない僥倖。が、エンジュは言葉が出てこなかった。うれしい? うれしくない? どちらともつかない感情。エンジュの心は浮き立たない。
けれど、
——この人の手をとりたい。……
それは、誘惑といってもよかった。身を滅ぼしかねない誘惑。それとも、滅びるのは自分自身ではなく、他の誰かなのだろうか? だとしたら、自分自身は?
(マリオン)
もうひとつの、エンジュの運命。(あなたなら、知っている?)
だが、知っていても、知らなくても——自分はこの人の手をとってしまう。
「さっきの質問をくりかえすわ」
エンジュは男をまっすぐにみつめて訊く。「その代わりに、わたしにしてほしいことは、何?」
アルキスは一瞬うごきをとめて、次の瞬間、声を放って笑った。
「大した女なのか、つまらぬ女なのかわからないな。恐ろしいことをさせられるとわかっていて、拒まぬのか」
「ええ」
短く、それだけを答えると、アルキスももはや笑わなかった。うなずいて、エンジュの手を強く握りしめたが、必要以上に強い力で握りしめていることには気づいていないようだった。幾多の戦場を駆けてきた少女は、手に痛みを感じても何も言わず、続く言葉を待った。
——わたしは、ほんとうは歌を探しにきたの。星々の庭の鍵。……
は、とエンジュは息をのんだ。よみがえってきたのは、金のたてがみと、赤の瞳。
「歌……」
エンジュはアルキスを見た。「歌のために、ティンダルを滅ぼしたの?」
青年の表情が変わった。エンジュはそれを見てとった。
「帝王アルキス。悔やんでいるの? ティンダルには滅びない道もあったの?」
「滅ぼす必要はなかった。だが、滅びたものたちは帰ってこない。危うくそなたも歌も失ってしまうところだった。あれは、そなた以外の歌うものたちを、ひとり残らず殺してしまった」
「……やはりスエンたちも死んだのね」
エンジュは焼き尽くされた集落のなかで、殺されたティンダルをすべて確認することはしなかった。だから、マリオンが討ちもらすはずはないとわかっていても、どこかでスエンたちが生きているかもしれないという淡い期待が残っていた。それは今、完全に消えた。
「スエンたち謡い家の盲目の歌い手は〈星々の庭の歌〉を代々伝えてきたの。わたしは彼らの歌が好きだったけど、彼らはわたしを謡い家に迎え入れても、決して歌を教えてはくれなかった。でも、マリオンがティンダルを焼く直前、謡い家の長スエンは、わたしのための歌だといって教えてくれた。それが〈星々の庭の歌〉」
「私にはわが妹を制御できない。あれは怪物だ。他の兄弟たちとともに放逐されたあれが、ティンダルの歌をひっさげて帰ってきたときから、いつでも喉もとを狙われている。同時にあれは、初めてもたらされた希望でもあった。ようやくもたらされた、わずかな希望」
「希望……」
「〈運命を曲げ、従わせる者〉。それが、私の呼び名」
「あなたの運命は何?」
「死」
「人は誰もがいつか死ぬ。そういうことじゃないの?」
「〈王〉である私の死はメサウィラの滅亡だ。メサウィラが滅びれば、人々がいま享受している幸福も消える」
「それは予言?」
「そう……呪いだ。呪われた星、それがメサウィラの帝王アルキスの運命。私ひとりの死なら、それもよい。平凡なひとつの死にすぎないのだから。だが……」
思わず、エンジュは青年を抱き寄せた。
一度は、自分の知っている少年とは別人のように思えた青年が、今はあの夢の中の少年にしか見えなかった。あのやさしい少年は、やはりアルキスの中にいる。
少年は、今ここに、エンジュの目の前にいた。
「わたしが祝福してあげる」
少年のからだから、エンジュの耳に聞こえていた歌は、自分の命の限りを知る人のかなしさだった。スエンはきっと、同じかなしさにつつまれて死んでいったのだろうと、エンジュは思った。
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