08. 運命を曲げ、従わせる者<4>

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08. 運命を曲げ、従わせる者<4>

「〈王〉よ」  まるい空に夜が訪れ、天蓋が藍色に染まったとき、そこに現れた男は目を隠していた。  エンジュはアルキスのかたわらで、その男が一歩一歩近づいてくるのを見た。  マントで頭を覆い、布で両目を覆う男の足どりに迷いはない。この世界に何ひとつ知らないことなどないかのような姿は、どうしようもなくティンダルの謡い家の人びとを彷彿とさせ、エンジュはとなりにいる青年の袖をにぎりしめた。 「……メサウィラにも謡い家が?」 「メサウィラにいるのは星見(ほしみ)だ」 「あなた、ティンダルの謡い家の人々を知っている?」  アルキスの答えを待たず、エンジュは男に駆け寄った。「あなたと同じように目を隠した人たちがいたの。なんでも知っていて、やさしい……」 「奥方さま。私はティンダルの謡い家とはゆかりがございません。目隠しであるがゆえに、その者たちはティンダルで、私はメサウィラで、同様のお役目をいただいているということでございましょう」  エンジュは男から離れた。この男は星見であって歌い手ではない。スエンたちもまた、見えない目で、他の者には見えないものを見通す力があった。 「ストリキオと申します」  男は頭を下げた。 「星見のストリキオ。あなたはアルキスの運命を知っている」 「存じております。私が星を読み、その運命を〈王〉にお伝えしました。ですが、〈王〉の運命はメサウィラの民はみな知っております」 「民はアルキスの味方ね。アルキスの隣にいたから、わたしまで受け入れられた」 「〈王〉はご自身の運命を知り、運命に抗い、運命を変えられた。そして、そこから獲得した利益を民に与えた。それゆえに民は〈王〉の味方なのです。言い換えれば、〈王〉が民に利益をもたらさなくなったそのとき、民は即座に〈王〉を見捨てましょう」 「アルキスはどんな運命を変えたの? これからやってくる運命——アルキスと帝国の死を、どうやってわたしの歌が変えるの?」 「奥方様は何もご存じなく〈歌〉をうたわれるか」 「ティンダルでは、謡い家で歌をうたうのは目隠しの人たちだけ。わたしには、本来は歌は許されない。きっと、謡い家の長老は、自分たちが滅ぶことを知って、生き残るわたしに歌を伝えようとしたのではないかしら。不思議な力をもつ歌だから」 「そうではありますまい」  ストリキオは、思いのほかはっきりと言い切った。「力ある〈歌〉だからこそ、心得がない者に伝えるのは危うい。おそらくは、あなたさまのものを、あなたさまにお返ししたということでしょう」 「わたしの……」  ——目隠しには目隠しの歌い継ぐべき歌が、おまえにはおまえの歌がある。  スエンは、そう言ってエンジュにあの歌を教えてくれた。若い目隠しの少年もあの歌を受け継ぎたがったが、スエンは許さなかった。少年はただ聴いているようにと諭された。あれは、彼がスエンとともに滅びる運命だったから、歌を習っても意味がないともとれるが、スエンの言葉には一度として空虚なものはなかった。やはり言葉どおり、あれは〈エンジュの歌〉だということなのだろう。  しかし、〈エンジュの歌〉とは何なのか。いったい誰がエンジュのためにあの歌をつくり、ティンダルに伝えたというのか。 「わからない。わたしは何も知らされなかった。あの歌以外の歌は、教えてもらえなかった。スエンたちは、わたしが聴いているのに気づくと、歌をやめてしまった。〈星々の庭の歌〉以外は」 「奥方さま。私は何もかも知っているわけではないのです。ましてそれが人智をはるかに越えたものごとであれば。しかし私に見えるものもあります。私は私の盲いた目に見えるわずかな光から、読みとるだけなのです。星々の〈歌〉を」 「それが星見だ」  アルキスが受けて言った。「星見はその見えない目で、常人には見ることのできない光を見る。星見の才に恵まれた者たちは、この天空に浮かぶ星々から〈歌〉——詩、韻律のある言葉といってもいいな。それを読むのだ」 「星は歌う?」 「そうだ。メサウィラは古くからそれを知っていた。一族のなかに星見をおき、星の〈歌〉を読み、予言や箴言といったかたちの詩から、一族に近くもたらされる幸運や災難をあらかじめ知り、それに基づいて決断してきた。メサウィラという小さな一族は、そうやって細々と生きのびてきた。——私、アルキスが現れるまでは」 「アルキスさまは〈王〉の星のもとに生まれたお方。それもただの〈王〉ではない」  星見のストリキオは滔々と語る。「〈冬の王〉。それがアルキス様の運命なのです」  少年アルキスはメサウィラの帝王一族の末端に生まれた。  少なくとも少年は、そう信じていた。物心ついたとき、少年の周囲はとても静かで幸福だった。そばにいるのは、やさしくも厳格な大人たちと、幼友達としてつけられたザイウスという少年だった。  自分が帝王位の継承権をもって生まれてきたことは、アルキスも理解していた。しかし、アルキスが幼少期をすごしたグスキアは、現在のメサウィラの版図に比較すれば小さい、当時のメサウィラでは辺境にあり、世界には少年の周囲にいる十人ほどしか存在しなかった。石づくりのグスキア館と、そのまわりのこぢんまりとした庭園、その庭園を囲む広大な沃野。それが少年アルキスの帝国であり、それ以外のことは何ひとつ知らなかった。  父と母というものは、最初から存在しなかった。だれもアルキスに教えはしなかった。幼いザイウスさえ、自分の両親の話をアルキスにもらすことはなかった。周囲の大人たちからメサウィラという小さな帝国のことを教えられたアルキスは、自分の「父」にあたる人間がその頂点に立っていると聞いても、自分に関係がある話とは思わなかった。  アルキスはザイウスとともに、まずは庭園を、庭園が狭くなったら広々としたグスキアの沃野を、駆けめぐった。ザイウスはどこまでもアルキスについてきて、アルキスが危うくなるとどんなときでも駆けつけた。あるとき、木から落ちたアルキスをかばい、ザイウスは顔に大きな傷をつくった。そのときの傷は、ザイウスが死ぬまで消えなかった。ザイウスはそれからも、アルキスのそばを離れなかった。  世界が変わる日は、突然やってきた。アルキスはメサウィラの中心、樹上城に呼びだされ、帝王位が自分のものになるのと告げられた。アルキスの知らないあいだに、帝王である「父」が身罷り、アルキス以外の数多の兄弟姉妹——とその係累——のあいだで闘争があった。そして、アルキスの知らないあいだに決着はついていた。  メサウィラの王子と王女は、帝王位を継ぐ者以外すべてが奴隷として追放されるならわしだ。アルキスが樹上城の頂上、まるい天空の下にはじめて立ったとき、そこにはアルキス以外だれもいなかった。まだ背丈ものびきっていないザイウスと手をとりあい、うす寒い場所を見渡したとき、どうやってグスキアの野へ戻ればいいのか見当もつかなかった。  玉座のうえに放りだされたアルキスの前に現れたのは、メサウィラに代々仕える星見の男である。ストリキオという盲目の男は、見えない目で何もかもが見えているかのようにアルキスに物語る。アルキスが〈王〉の星のもとに生まれたこと、そのためにアルキスの兄弟姉妹は一人残らずメサウィラから追放されたこと。ストリキオが教えたのはそれだけだった。  あとはふたたび、ザイウスと二人で取り残された。ザイウスは親友として手をつないだまま、アルキスを見やり、それから臣下としてアルキスの手を離した。  ——アルキスさま。わが帝王よ。私があなたのメサウィラの最初の民、最初の兵です。どうかご随意に。……  ひざまずく少年の姿に、もう一人の少年が感じたのは絶望だった。けれど、絶望はやがて別のものに姿を変えた。  ——私は〈王〉の星のもとに生まれた。〈王〉は並び立たない。〈王〉はひとり。  このとき、メサウィラ帝王アルキスは立った。円形の空の下で。
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