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08. 運命を曲げ、従わせる者<8>
冷静さを取り戻すのには、しばらく時を要した。
異母妹といっても一度も会ったこともなく、しかも政敵だった女だ。マリオンという見知らぬ女が信用のおける者かどうかは、アルキスにはわからない。よって、ザイウスに一軍を預け、マリオンの指定する日時にティンダルへ向かわせることにした。
果たして、マリオンはすぐに結果を出した。その日はティンダル一の戦士たちの婚姻の夜だったという——花嫁はマリオン自身だった。〈草の海〉のさなかにあって、深夜の襲撃などありえないとたかをくくった屈強の戦士たちは、祝いの酒に酔ったまま、新婚の床から飛びだしたマリオンによって屠られることになった。
ザイウスは止めることができなかった。〈星々の庭の鍵〉がそれほどの力をもつなら、たしかに知る者は少ないほうがよい。ティンダルが〈星々の庭〉に精通しているという話がそのとおりなら、アルキスのためにティンダルは滅ぼさなければならない。そうザイウスは判断し、マリオンに続いた。
だが、あまりにもたやすく殺されていく人々をまえに、ザイウスは疑問を抱かざるをえなかった。まだ息のある者を揺り起こし、尋ねたという。
——〈星々の庭の鍵〉を知っているか。
その女は、わずかに頭を振ろうとして、息絶えたという。
こうして、マリオンとザイウスはティンダルを滅ぼし、樹上城に帰還した。
このときすでに、ザイウスはアルキスを裏切っていた——それは後日判明するところとなる。
一方マリオンは、王女として幼時以来の樹上城登城となった。
円形の天空の下で、マリオンは歌った。
〈神々の御世、星々の下なる丘にて
星の子墜つ……〉
——それは?
——これが〈星々の庭の鍵〉でございます。
言葉と挙止だけは帝王に敬意を払い、初めてまみえる妹姫は答えた。
——それで?
——それで……とは?
燃えるような黄金の髪を、樹上城の頂上に吹く風がもてあそぶままにして、王女マリオンはほほえみを浮かべた。
——その歌が〈星々の庭の鍵〉だと?
——帝王がお望みのものでございます。
——それで何が起こるというのか。
——わたしにはわかりかねます。しかし、これがティンダルが受け継いできた鍵です。
——何を隠している。
——帝王に隠し立てなどいたしましょうか。
——おまえは何をしっている。王女マリオン。
——私が存じておりますのは、
妹である女は、そのままのほほえみで言った。
——あなたさまのお許しを得て、この鍵をしるティンダルの者を、ひとり残らず誅殺したということだけにございます。
アルキスは言葉を失った。
罵ることも忘れた。女は帝王の許可を得ずに退室したが、そのことにも気づかなかった。気がつけば、かたわらにストリキオとザイウスがいた。
自分が今までためらいもなくなしてきた行為に、足もとをすくわれた。メサウィラのためという大義名分で滅ぼした幾多の国々や村々と同様、自分の希望をも蹂躙したのだ。
——ですが、鍵を手に入れられたことに変わりはありません。
と、ザイウスは言った。アルキスは星見の男に視線を投げた。
——私が申しあげられるのは、鍵の存在まで。この先の答えは——
——私自身が、か。
——さようでございます。
これは、絶望ではない。
その夜である。
アルキスは夢の果樹園に東屋をみいだした。無限に続くかと思われた果樹の林の片隅、矩形の池のかたわらに、それはあった。
水底から小さな泡がしきりとのぼってくる。水が湧いていた。アルキスがつくった庭は、塀の中の池から水を流していたが、塀の外で湧いていたとは。
水底は深く、どこまでも続いているようにみえた。アルキスがつくることはできない、夢の秘密。アルキスは池に飛びこんで奥底を確かめたかったが、少年のアルキスはそんなことはしない。これもまた時間がかかりそうだった。
やさしく柔和な少年アルキスは、水泡のうごきをいつまでもみつめている。ひとりでも、ほほえみさえ浮かべて。心を満たすのは、根拠のない満足感。青年のアルキスには、理解できない。理解できなくても、満たされている。
ひたすらに、水をみつめている夢。
しかし、もうひとりのアルキスは、密かに息をのむ。
少しずつ、ほんの少しずつの変化。水にうつる光が、少しずつ色合いを変えていく。
日がかげってきている。
日が暮れるというのか。これまで一度たりともこの果樹園に夜は訪れなかったというのに。この昼間だけの庭に、星がまたたくというのか。
は、と息をのんだのは、少年のほうだった。アルキスには、何が起こったのかわからなかった。
足音だ。足音が近づいてくる。近づいてくる足音に、この静かで満たされた少年が、駆け寄っていく。
「——わが王」
少年はひざまずいた。その人に対し、手をさしだして。
「お待ちしておりました」
長年秘めていたものをおさえこむように、少年はつとめて声を落として告げた。
星の光に照らされて、暗闇のなかでその人はほのかに浮かびあがっていた。
星を瞳に浮かべた娘が、戸惑いながらそこにたたずんでいる。けれど、少年の手を振り払うことはしなかった。
「わたしは王なんかじゃない」
「いいえ、あなたが、わが王です」
そのとき、もうひとりのアルキスにも忽然とわかった。この娘がそれなのだと。少年のアルキスと、青年のアルキスが、長年待ち焦がれていた存在なのだと。
それは理屈を超越していた。アルキスには選択権などまるで与えられなかった。
目の前にいるまだ幼さすら残る少女に、ただ恭順の意を示すしかなかった。
「この庭を訪れるのは、わが王だけです」
アルキスは迷うことなく断言した。それは、少年としてなのか、現実の青年としてなのか、アルキスにもわからなかった。
どうして自分は夢をみるのか。
この夢は何なのか。この夢がもたらそうとしているものは何か。
何ひとつ、理解できなくとも。すべてはこの人のもの。
しかし、少女はアルキスほどにも事態を理解していないようだった。
「ならば、あなたが王では」
と、娘は言った。
「わたしが?」
「わたしは今はじめてこの庭に来たの。だから王なんかじゃない。あなたもこの庭を訪れている。あなたが王でもおかしくない」
「わたしには庭園の門はひらけません。わたしはこの果樹園で、なすすべもなく呆然としていることしかできないのです」
そう答えて少年は、あれを、と指さした。そこに、石づくりの門があった。当たり前の風情で現れた錆びた鉄の門扉に、少年の中の青年は戦慄した。今の今まであれほど探していた、塀の入口。塀の内部は見ることも入ることもできず、現実につくらせた庭は、庭師たちに技術の粋を尽くさせることしかできなかった。
少女も、アルキス同様、門の存在に驚いていた。扉は少女のために現れたのに、少女は何も知らない。
だが、門が現れたのであれば、するべきことはひとつ。
「王よ、開けてくださいますか——その扉を」
「どうして?」
少女はそう切り返してきた。
「どうして、あなたはこの扉を開けたいの? あなたは、」
——あなたは、誰?
娘は扉のまえに立ち、その骨組みに触れた。こんなものはなんら問題ではないというように。むしろ問題は、少年の存在なのだというように。
「わたしは——」
少女の納得できる答えを、すぐに返すつもりだった。けれど。
(わたしは、誰? そして、)
——あなたは、誰?
自分と彼女は、どうしてここにいるのだろう? なんのために? それでもなお、自分と彼女はここにいるべきなのだという確信だけがある。
「あなたが、あなたのことを答えられないなら」
と、少女は言った。
「わたしは、あなたをみる。あなたがみえてくるまで」
——ここにいる。……
ずっと、探していた鍵が、ここにある。
少年は少女を、まぶしくみた。
「わたしはエンジュ」
——わたしは、ここを訪れる。何度でも、あなたのいるこの庭へ。
(……エンジュ)
その名前を抱いて死にたいと、瞬間、思った。
少年と青年の境界がわからなくなったまま、アルキスは樹上城の寝床で目を覚ました。目を覚ました瞬間に、自分の世界のすべて、メサウィラと〈草の海〉と、今までになぎ倒してきたあらゆるものが、胸に迫った。
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