08. 運命を曲げ、従わせる者<11>

1/1
前へ
/74ページ
次へ

08. 運命を曲げ、従わせる者<11>

 ティンダルで暮らしていたころの得体のしれない異和感。  ティンダルは、少女が生涯の大半をすごした場所だったから、まだ強烈に覚えている。同時に、どうしようもない焦燥がからだを焼くようだった。異和感を放置したまま少女は何かに力を尽くすことができず、そうして最初に心を寄せた少年を失った。  ティンダルから遠く離れた今でも思う。あのときマリオンに勝っていたら、フリッツと婚礼を挙げるのが自分だったら、ティンダルは滅びずにすんだだろうか? ティンダルは滅びる運命にはなく、スエンはエンジュに〈星々の庭の歌〉を伝えることもなく、エンジュはあの歌をマリオンに教えてしまうこともなく。けれどそうだとしたら、目の前の人はどうなっていただろう。今も星の宿命と戦いながらストリキオの言葉だけを頼りに〈星々の庭〉を探していただろうか。  青年が声を放って笑ったとき、 (かわいそうに)  少女が思ったのはそれだった。ティンダルを滅ぼしたのはこの人だ。それでも、そうとしか思えない。 (あなたが望むなら、なんだってしてあげる。でも)  胸を、かすかな異和感が、針のように刺してくる。それは、見過ごそうと思えば見過ごせるような痛みだ。  けれど、それはある。そして持続している。痛みは存在するのだと、目を逸らそうとするエンジュに訴えかけてくる。  でも、エンジュにはどうしようもなかった。目の前の人が望むことを実行するしか。〈星々の庭の歌〉をうたうことが、夢に入る以外の意味をもつかどうかなどわかりはしない。  ——目隠しには目隠しの歌い継ぐべき歌が、おまえにはおまえの歌がある。  スエンが言ったのは、それだけだ。それと、めったなことでは口にしてはいけないということ、決して忘れてはならないということ。歌についての説明はそれだけ。  エンジュはこの歌を知る最後のひとりだ。だから、忘れてはならないというのはわかる。けれど、口にしてはいけないというのは、何を意味していたのだろう。それが、アルキスとストリキオがいう「運命を曲げる」何かだというのか。アルキスはその目的のためだけに、夢のなかでエンジュを待っていたというのか。 (そんなことのために、わたしはここまで来たんじゃない)  エンジュの中で何かが叫び、またそれが針となって刺さる。しかし、それでもエンジュはアルキスの手を離さなかった。ただ、哀れむように、運命に一生を縛られた男をみつめていた。  星々の光をたたえる水面のうえへ、ふたりは降り立つ。かたわらの青年は、おそるおそる水面に足をのばし、そこに輪が描かれるのを見ていた。 「ここは?」 「ここがそうでしょう」  問いかけに、エンジュは答えた。 「〈星々の庭〉には、門はなかった。あれほど長いあいだ、夢の中を探していたのに。では、そなたとはじめて出会ったときに見た、あの門は?」 「わかりません。わたしはすべてを知っているわけではないですから。〈星々の庭の歌〉がなんなのかも、スエンには教えてもらえなかった」  スエンの名前を口にすると、懐かしさと悲しさが押し寄せて、エンジュは目をぬぐった。アルキスに見られたくなくて、顔を逸らす。  しかしアルキスは気づきもせず、〈星々の庭〉をきょろきょろと見まわしていた。当然だ。ここは、彼がずっと願っていた場所なのだから。エンジュのことを気にかける暇などない。  だが不思議と、足もとにひろがる透明な水と、その奥底でまたたく星々をみていると、エンジュの心はやすまった。不穏な感情など、最初から存在しなかったような気がしてくる。きっと、自分にとっても、ここは帰る場所なのではないか、とエンジュは思った。  ティンダルでの異和感とも、マリオンやアルキスへのうずまく思いとも、樹上城での退屈な平穏ともちがうもの。無条件でここにいることが許されている場所。 「エンジュ、行こう。まだ先があるはずだ」 「はい」  エンジュはうなずいた。握った手に力をこめる青年に、少女も応えた。この先の世界をエンジュは知らない。  それでも、 (アルキスにあげる。あげられるものは、全部)  ザイウスにはあげられなかった。ユーダにも、フリッツにも。だからエンジュはためらわない。  与えられたあの歌を、うたう。  あ、と思うまに、静かな水音。足もとの水面の中へふたりは落ちた。水は意思をもつかのように、ゆっくりと青年と少女を水底へと引きこんでいく。  足がつく。けれどそこはまだ、水の底ではなかった。上にも、満天の星空。上を見ても、下を見ても、星で満ちていた。どちらが水中で、どちらが空なのか。どちらが本物の星で、どちらが鏡像なのか。  答えは決まっている。星は天にあるものだ。だとしたら、この水のなかに漂っている星はなんだろう。エンジュは手をのばそうとした。  が、その手はアルキスに握られており、ふいに強く引っぱられた。振り返ると、青年はひどく苦しげで、気泡が口から立ちのぼっている。 「落ちついて。呼吸できます」  アルキスは大きく息を吸った。「夢です。アルキス」 「しかし不可解だ……」 「ええ、でも……この場所をわたしは知っている気がします。わたしと一緒なら、溺れはしません。ここはわたしの場所ですから」 「ティンダルのエンジュ。おまえは何者だ」  そうだ、この場所を知っている。でも、思いだせない。ティンダルで過ごしていた日々の強烈な異和感、それはあの場所が、この場所ではなかったからかもしれない。  エンジュは足下のトカゲを見やる。夢の中さえ一緒についてくるこのトカゲは、エンジュが何者なのかを知っているのだろうか。エンジュがどこから来て、どこに帰るべきものなのかを。けれど、ルルはいつものように、足下で悠然と寝そべっている。 「ここで何ができる?」  ふたたびアルキスが問う。 「わかりません……でも」  エンジュは頭上を指さした。「あれが星で、これは『ちがう』」 「『ちがう』?」  はかりかねて、青年は少女の言葉をくりかえす。エンジュははるか頭上、水面のうえに輝く星々をみやった。 (懐かしい)  エンジュは自分のなかにある感情をたしかめ、自分とてのひらでつながっている男に視線を落とす。それから、足下にいる友人を。  アルキスだけが、この場所で異質だ。彼はこの場所にいるべき人ではない。けれどここにいてほしい。  今、どうするべきなのか。この場所にいる自分は。彼の願いを叶えたい自分は。 「エンジュ?」  少女は、自分のすぐそばに浮かんでいた星へと、手をのばす。指先が小さな星をかすめ、弾いた。  澄んだ鈴の音にも似た響き。 「あっ」  思いのほか勢いづいて、小さな星は水のなかを移動していく。 「待って……」  星は弧を描いて落ちていく。淡い光の軌道が残り、星は黒い水底へと姿を消す。  次の瞬間、頭上で大きな光が横切り、ふたりは弾かれたように顔をあげた。  天空の星が——落ちていく。  白く燃え、今にも燃え尽きようとして——消えた。 「星が動いた」  アルキスは勝ち誇って告げた。「ここが〈星々の庭〉だ。そなたが何者か知らないが、それはまちがいない」  ——運命は、曲がる。……  帝王はまた、笑った。
/74ページ

最初のコメントを投稿しよう!

13人が本棚に入れています
本棚に追加