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08. 運命を曲げ、従わせる者<11>
ティンダルで暮らしていたころの得体のしれない異和感。
ティンダルは、少女が生涯の大半をすごした場所だったから、まだ強烈に覚えている。同時に、どうしようもない焦燥がからだを焼くようだった。異和感を放置したまま少女は何かに力を尽くすことができず、そうして最初に心を寄せた少年を失った。
ティンダルから遠く離れた今でも思う。あのときマリオンに勝っていたら、フリッツと婚礼を挙げるのが自分だったら、ティンダルは滅びずにすんだだろうか? ティンダルは滅びる運命にはなく、スエンはエンジュに〈星々の庭の歌〉を伝えることもなく、エンジュはあの歌をマリオンに教えてしまうこともなく。けれどそうだとしたら、目の前の人はどうなっていただろう。今も星の宿命と戦いながらストリキオの言葉だけを頼りに〈星々の庭〉を探していただろうか。
青年が声を放って笑ったとき、
(かわいそうに)
少女が思ったのはそれだった。ティンダルを滅ぼしたのはこの人だ。それでも、そうとしか思えない。
(あなたが望むなら、なんだってしてあげる。でも)
胸を、かすかな異和感が、針のように刺してくる。それは、見過ごそうと思えば見過ごせるような痛みだ。
けれど、それはある。そして持続している。痛みは存在するのだと、目を逸らそうとするエンジュに訴えかけてくる。
でも、エンジュにはどうしようもなかった。目の前の人が望むことを実行するしか。〈星々の庭の歌〉をうたうことが、夢に入る以外の意味をもつかどうかなどわかりはしない。
——目隠しには目隠しの歌い継ぐべき歌が、おまえにはおまえの歌がある。
スエンが言ったのは、それだけだ。それと、めったなことでは口にしてはいけないということ、決して忘れてはならないということ。歌についての説明はそれだけ。
エンジュはこの歌を知る最後のひとりだ。だから、忘れてはならないというのはわかる。けれど、口にしてはいけないというのは、何を意味していたのだろう。それが、アルキスとストリキオがいう「運命を曲げる」何かだというのか。アルキスはその目的のためだけに、夢のなかでエンジュを待っていたというのか。
(そんなことのために、わたしはここまで来たんじゃない)
エンジュの中で何かが叫び、またそれが針となって刺さる。しかし、それでもエンジュはアルキスの手を離さなかった。ただ、哀れむように、運命に一生を縛られた男をみつめていた。
星々の光をたたえる水面のうえへ、ふたりは降り立つ。かたわらの青年は、おそるおそる水面に足をのばし、そこに輪が描かれるのを見ていた。
「ここは?」
「ここがそうでしょう」
問いかけに、エンジュは答えた。
「〈星々の庭〉には、門はなかった。あれほど長いあいだ、夢の中を探していたのに。では、そなたとはじめて出会ったときに見た、あの門は?」
「わかりません。わたしはすべてを知っているわけではないですから。〈星々の庭の歌〉がなんなのかも、スエンには教えてもらえなかった」
スエンの名前を口にすると、懐かしさと悲しさが押し寄せて、エンジュは目をぬぐった。アルキスに見られたくなくて、顔を逸らす。
しかしアルキスは気づきもせず、〈星々の庭〉をきょろきょろと見まわしていた。当然だ。ここは、彼がずっと願っていた場所なのだから。エンジュのことを気にかける暇などない。
だが不思議と、足もとにひろがる透明な水と、その奥底でまたたく星々をみていると、エンジュの心はやすまった。不穏な感情など、最初から存在しなかったような気がしてくる。きっと、自分にとっても、ここは帰る場所なのではないか、とエンジュは思った。
ティンダルでの異和感とも、マリオンやアルキスへのうずまく思いとも、樹上城での退屈な平穏ともちがうもの。無条件でここにいることが許されている場所。
「エンジュ、行こう。まだ先があるはずだ」
「はい」
エンジュはうなずいた。握った手に力をこめる青年に、少女も応えた。この先の世界をエンジュは知らない。
それでも、
(アルキスにあげる。あげられるものは、全部)
ザイウスにはあげられなかった。ユーダにも、フリッツにも。だからエンジュはためらわない。
与えられたあの歌を、うたう。
あ、と思うまに、静かな水音。足もとの水面の中へふたりは落ちた。水は意思をもつかのように、ゆっくりと青年と少女を水底へと引きこんでいく。
足がつく。けれどそこはまだ、水の底ではなかった。上にも、満天の星空。上を見ても、下を見ても、星で満ちていた。どちらが水中で、どちらが空なのか。どちらが本物の星で、どちらが鏡像なのか。
答えは決まっている。星は天にあるものだ。だとしたら、この水のなかに漂っている星はなんだろう。エンジュは手をのばそうとした。
が、その手はアルキスに握られており、ふいに強く引っぱられた。振り返ると、青年はひどく苦しげで、気泡が口から立ちのぼっている。
「落ちついて。呼吸できます」
アルキスは大きく息を吸った。「夢です。アルキス」
「しかし不可解だ……」
「ええ、でも……この場所をわたしは知っている気がします。わたしと一緒なら、溺れはしません。ここはわたしの場所ですから」
「ティンダルのエンジュ。おまえは何者だ」
そうだ、この場所を知っている。でも、思いだせない。ティンダルで過ごしていた日々の強烈な異和感、それはあの場所が、この場所ではなかったからかもしれない。
エンジュは足下のトカゲを見やる。夢の中さえ一緒についてくるこのトカゲは、エンジュが何者なのかを知っているのだろうか。エンジュがどこから来て、どこに帰るべきものなのかを。けれど、ルルはいつものように、足下で悠然と寝そべっている。
「ここで何ができる?」
ふたたびアルキスが問う。
「わかりません……でも」
エンジュは頭上を指さした。「あれが星で、これは『ちがう』」
「『ちがう』?」
はかりかねて、青年は少女の言葉をくりかえす。エンジュははるか頭上、水面のうえに輝く星々をみやった。
(懐かしい)
エンジュは自分のなかにある感情をたしかめ、自分とてのひらでつながっている男に視線を落とす。それから、足下にいる友人を。
アルキスだけが、この場所で異質だ。彼はこの場所にいるべき人ではない。けれどここにいてほしい。
今、どうするべきなのか。この場所にいる自分は。彼の願いを叶えたい自分は。
「エンジュ?」
少女は、自分のすぐそばに浮かんでいた星へと、手をのばす。指先が小さな星をかすめ、弾いた。
澄んだ鈴の音にも似た響き。
「あっ」
思いのほか勢いづいて、小さな星は水のなかを移動していく。
「待って……」
星は弧を描いて落ちていく。淡い光の軌道が残り、星は黒い水底へと姿を消す。
次の瞬間、頭上で大きな光が横切り、ふたりは弾かれたように顔をあげた。
天空の星が——落ちていく。
白く燃え、今にも燃え尽きようとして——消えた。
「星が動いた」
アルキスは勝ち誇って告げた。「ここが〈星々の庭〉だ。そなたが何者か知らないが、それはまちがいない」
——運命は、曲がる。……
帝王はまた、笑った。
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