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01. 〇・〇〇〇〇〇〇〇〇五パーセントの少年<6>
視界は真っ暗闇だった。ただ、自分の心臓だけがうごきつづけている。
(いや、ちがう)
星空——だ。サイレはそう思った。
〈立体天宮図〉とは比べものにならない、無数の星。人為では到底実現不可能な、途方もない量の点描。それでいて、ひとつひとつが微妙な光彩をたたえている。
あるときは青、あるときは緑、あるときは赤、あるときは紫。繊細すぎる変化が、無限大にひろがっている。
怖い。
こんな世界では、どんな歌も無意味になってしまう。どんなに声量のある歌い手でも、こんな場所では声を失ってしまう。
「——あ」
テーマパークエリアのジェットコースターが落ちるように。
サイレはひきずりこまれた。
きこえる。
歌がきこえる。笑いながら歌う声が。
「——おいで!」
細く白い腕が、さしのべられる。
「おいで!」
ためらう。しばしの間そうしてから、やがてその腕に飛びのる。
小さな爬虫類だ。ぬらりとした土色の皮膚に、細長い尻尾。市民動物園で見たことがある。トカゲだ。もちろんトリゴナル内では、そのへんを歩きまわっている代物ではない。
「やったあ!」
弾けるように、少女が笑った。トカゲは彼女の腕から肩、首から頭へと駆けまわり、少女もまわりだす。
単純なつくりの貫頭衣を着た少女の、頼りない裾がひらひらと揺れていた。トカゲは少女の喜びにこたえるかのように、まわる少女のうえで駆けつづけている。
それは、非常に原始的な、なにか幸福といったものの姿だった。
少女はトカゲを肩の上にのせたまま、そばにあった大樹にとりつき、慣れた動きでのぼりはじめた。トカゲは横着にも、少女の肩から頭にのぼり、そこでくつろいで、少女がのぼるにまかせる。少女は軽々と大樹の枝の上にからだをあげると、腰を下ろした。
大樹は少女の身長の何十倍もの高さがあった。その枝に座って、彼女はあたりを見渡した。
そこは、広大な草原だった。小さな少女が埋もれてしまうほどに背の高い草が、見渡す限り生い茂っていた。
夕光のなか、草が風に揺れている。少し離れたところに集落らしい柵がみえ、そこから細い煙が立ちのぼっていた。
「ナムが夕餉の支度をしてるんだよ」
トカゲは耳を傾けているかのような顔で、ちょこんと腕にのっている。
「名前つけなきゃね。……ルル! ルルって呼んでいいかな?」
トカゲはじっと少女を見ている。「わたしはエンジュ。明日ここに遊びにきたら、また一緒に遊んでくれる?」
トカゲを下ろそうと、エンジュと名のった少女は手をのばして枝に橋を渡した。だが、トカゲは肩から降りようとしない。そこが自分の決められた居場所だといわんばかりに、エンジュの肩で落ちついている。
エンジュはしばらく肩の上の爬虫類を見守っていたが、やがて笑顔になって、
「わたしのこと好きなの?」
木の上から、飛んだ。
回転しながら落下し、草の上に着地する。トカゲはうまいことエンジュの服にしがみついており、振り落とされることはなかった。
「しょうがないなあ。じゃあ、一緒に夕餉にする?」
ふたたびトカゲの反応をうかがったが、相変わらず動こうとしない。エンジュはにっこりして、しょうがない、しょうがない、と歌うようにくりかえす。背の高い草をかきわけ、広い草原を、自分の住む集落へと帰っていく。
「エンジュ! なにそれ?」
仲間の子どもたちが、肩にいる生き物をみつけて追いかけてくる。
「ルルだよ。わたしのこと好きになっちゃったの。離れないんだもん」
「いいな。それほしい」
「ルルはわたしのことが好きなの。アラナは他あたってよ」
「でも、そんなの〈草の海〉で見たことない」
「わたしも初めて見たけど。一匹いるんだから、もっといるよ。世界でたった一匹しかいない生き物なんかないでしょ」
「ねえエンジュ、明日探すの手伝って」
「しょうがないなあ」
少女は得意で、腕にトカゲを駆けさせた。「ねえルル、仲間の居場所を教えてくれる?」
少女たちは家に戻った。そこは子どもたちばかりが集められている家で、世話役のナムという女がスープを鍋にあたためて待っていた。薄くのばして焼いたパンを、こころゆくまでおかわりして、子どもたちはすっかり満腹になった。日が沈んだら寝屋に入り、またたくまに眠りに落ちる。
朝は太陽がのぼると同時に目覚め、そのころにはまたナムが朝餉を用意してくれている。エンジュは約束どおり、アラナを連れてまたあの大樹にむかった。ルルをほしがった他の子どもも一緒だ。エンジュのトカゲは一夜明けてもまだそばを離れず、周囲の子どもたちをますますうらやましがらせた。
けれどルルは、エンジュの上を走りまわったり、ときどきエンジュから離れて木を登り降りしたりするだけで、一向に仲間を紹介してくれる様子はなかった。子どもたちがルルに文句を言いつつトカゲ探しをあきらめたときも、ルルはどこ吹く風で、エンジュの服の裾にぷらぷらとぶらさがっているのだった。
その夜である。いつものように日没とともに寝屋に入ったエンジュは、日ごろひどい寝相で寝屋中をうごきまわる仲間が、今日は妙に大人しいことに気づいた。
「アラナ?」
エンジュは起きだして、となりに眠る少女に触った。
ひやりとした。まるで石だ。鼻のまえに自分の顔をもっていき、胸を確かめてみる。息をしていない。あわてて、世話役のナムを起こしにかかる。ナムは飛び起き、あれこれと試みたが、
「〈草の海に魅入られた〉か」
やがて、アラナを抱えて出ていってしまった。
アラナをどうするの? とは訊かなかった。エンジュは知っている。小さい子どもの中には、なんの前触れもなく息をとめてしまう者がときおりいた。大人たちのいうことには、〈草の海〉の毒にあたったのだと。エンジュたちの集落は、背の高い草がどこまでも生い茂る〈草の海〉のさなかにあって、草を生かす〈毒の水脈〉の影響を免れない。草の毒を全身に浴びながら、それでも生きのびた子どもだけが、〈草の海〉を駆けめぐる〈ティンダルの馬〉となる。
だから、大人たちは決して柵の外に出ることを禁じたりはしない。アラナは自分で柵の外に出ることを選び、毒にあたって死んだ。トカゲを見せびらかしたエンジュをだれも責めないし、〈草の海〉の中にある大樹で拾われたトカゲを、もとの場所に戻してこいとも言わない。この〈草の海〉では、どんなまちがいでも、だれに言われたのだとしても、すべては自分の選択なのだ。
〈草の上の星、ティンダルの王冠よ
死せる者の目の光となれ〉
早朝、いつものように日の出とともに目覚めたエンジュは、低く歌う老婆の声を聞く。
子どもが見送りに参列することは禁じられていた。エンジュは天幕の隙間から、老婆を先頭にして歩いていく大人たちをみる。何度もくりかえされるしらべを、エンジュは口ずさんだ。
ルルがエンジュの肩にのぼってきて、あいさつをするように少女の頬をつついた。ルルは何も語らない。ただ黒い眼をみはっている。
「ルル、知ってる? アラナたちは高いところに行ったんだよ」
トカゲをてのひらに移し、エンジュは手だけを天幕の外に出す。
「あの雲よりずっと高いところに、わたしたちの命を司る星がある。わたしの星も、アラナの星も、きっとルルの星も、命の役目を終えない限り星はあの空の上にありつづける。役目を終えたら——星は墜ちるの。
アラナはトカゲをほしがってたのにみつけられなかったから、きっとまだ終わりじゃない。だから星は墜ちない。墜ちないよね。ルル、どう思う?」
手をひっこめ、トカゲに尋ねる。灰色の空の下で、いつもの土色から灰色へと容貌を変えたルルは、みつめるエンジュにこたえて、ただみつめかえした。
「わからないよね。わからないの、困るよね」
エンジュは垂れ幕をしっかりと閉ざして、ほかの子どもを起こさないように寝床に戻った。天幕の外からは、まだ老婆の歌声がかすかに響き、エンジュは浅い夢のなかで冷たくなった少女が〈毒の水脈〉に沈んでいくのをみた。毒の水は少女を溶かし、水と少女は一体になり、海となる。水はやがて風になって天にのぼり、少女を星へ還す。
この世界に、星がめぐり、水がめぐり、命がめぐる。めぐり、去っていく命を、少女はまだ自分のこととしては知らない。
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