13人が本棚に入れています
本棚に追加
01. 〇・〇〇〇〇〇〇〇〇五パーセントの少年<7>
幼い少女は、自分の命を駆ける。ひたすらに駆けていく——幸福な笑い声をたてて、深い草の海を。
少女の背中が、草原を駆けていく。その肩に、トカゲのルルがいる。新しく生まれてきた仲間が何人星に還っても、ときには大人がそうなったとしても、ルルはそこにとどまった。
最初は、てのひらでくるんでしまえるぐらいの大きさだった。毎日、麦粒を与えたり、外で虫を食べさせたりするうちに、ルルはどんどん大きくなっていった。一年もしないうちに、だれの目にもルルの成長は明らかになり、エンジュの手から尻尾がはみでるようになったころ、少女にもまた変化のときが訪れた。
ある朝、七歳になる子どもが集められ、ルルを拾ったあの大樹の下に連れてこられた。
「いちばんに頂上にたどりついた者に、宝物をやる」
と、ジンバという名の男が告げた。
ジンバが見せたものは、不透明の青い石だった。雨のあとの空を凝縮したような石は、ティンダルの大人の多くが身につけているものだ。それは、優れた〈ティンダルの馬〉の証、子どもたちにとっては立派な大人であることの証であり、七歳児十一人は色めきだった。十二人めのエンジュを除いては。
エンジュは肩にのったルルを見る。ルルこそがすてきな宝石だ、と少女は思った。大人たちがこぞって、耳飾りや頭飾りや首飾り、果ては武具にまでとりつけて誇らしげにしているあの石は、空を殺して閉じこめたかのようで、ちっとも心惹かれない。死んだ石なんかより、灰色の空に合わせて灰色に変わり、青色の空に合わせて青みを帯び、ときに虹色の輝きを帯びるルルのほうが、エンジュにはずっと魅力的に思えた。
けれど、大樹に登ることは大好きだった。ジンバの合図とともに、歓声をあげて木に突進していく子どもたちをかわし、エンジュは木にとりついた。
そのままするする登っていくと、自分の何十倍もある高さの木の上から手を振った。
「よくやった、エンジュ。さすがはアイラとクロワラの子」
エンジュを産んだ母と父の名前だ。といっても、ティンダルで生まれた子どもは一か所に集めて育てられるため、世話役のナムほどの親しみもない名前だった。アイラはその世代一の戦士、もっとも優れた〈ティンダルの馬〉であり、男の中でもっともすぐれた戦士であるクロワラを選ぶことを許されたという。アイラと結婚して、クロワラはティンダルの長となった。日常ほとんど接触がなくても、エンジュはティンダルの長の娘だった。それはエンジュも知っている。
けれど、若い〈ティンダルの馬〉として初めて褒賞のラピスラズリを与えられたときの、えもいわれぬ不快な気持ちは、幼い少女を決定的に方向づけた。
武勲をあげた〈ティンダルの馬〉に与えられ、優れた〈馬〉ほど多く身につけている貴石。それは、エンジュにとって最初で最後のラピスラズリとなった。
木登り競争はきっかけにすぎなかった。その後、次々にもたらされたティンダルの義務は、少女から自由を奪った。
七歳になるまで、ほぼすべての時間〈草の海〉を駆けまわっていたエンジュは、決められた場所の内側で走り、鍛錬することを要求された。
訓練はまだよかった。いわれるまま鍛えているうちに、ある日からだが動くようになると、ある種の快感を覚えたからだ。
が、よかったのはそれぐらいで、まず自由にすごせる時間がほんの少しになった。それから、いつ何時でも年長者の指示どおりに行動することを要求された。さらには、子どもの家から十五歳以下の少女ばかり住む家へ寝屋を移された。
そこには年長の少女たちが君臨しており、訓練が終わったあともあれこれと指図してきた。注意してくれる世話役の大人はおらず、ただ単に年長でからだが大きく、ラピスラズリの装飾をきらびやかにまとった——つまり〈ティンダルの馬〉としての功績が認められているというだけの少女が、エンジュの邪魔をした。
何より決定的だったのは、月例大会と呼ばれる試合だった。七歳から十一歳、十二歳から十五歳、そして十六歳以上の部に分けられた〈ティンダルの馬〉たちは、月に一度の大会を勝ち抜いて武勇を証明しなければならない。各部で勝ち抜いた者は、やはりラピスラズリを授けられて祝福を受けることになる。
「——いや!」
最初の試合に引きずりだされたエンジュは、出るなりそう叫んで、父である男に殴りとばされた。
集落の中心、広場に描かれた試合会場の円のなかで、少女と父親は対峙していた。
「長の娘ともあろう者が、なんたる身勝手を」
「いやなものは、いや」
「かまわん、ミレイ。やれ」
「でも……」
クロワラはそれ以上は何もいわずに円を出ていった。ひとつ年長のミレイはためらいつつエンジュに近づいてきたが、何も反応しない年少の仲間に攻撃しかねて、
「やれ!」
族長の怒号に震えあがり、とうとう足が出た。十一歳以下の部では、攻撃は足技に限定されている。防ぐことすらしなかったエンジュは、まともに腹に受けて、円の外に飛ばされた。
「エンジュ!」
「ミレイ、勝ち抜き」
蹴った本人が駆け寄ってくると同時に、審判の声。初めての月例大会は、腹の打撲に終わった。ごめんね、ごめんね、とくりかえし謝るミレイに、エンジュは何も感じなかった。ただ、不愉快な時間が終わったことに、涙が出るほど安堵した。
その夜、年長者の目を盗んで、寝屋を抜けだした。何も言わずとも、肩には少しだけ目つきが凛々しくなったあのトカゲがいる。
夜は深い。日中、訓練に明け暮れた少女たちは、みな昏々と眠っていた。
行き場をさがして、少女は家々をさまよった。不寝番をつとめる若い戦士たちの死角から死角、暗がりから暗がりへ、エンジュはたどっていった。暗がりの中で、自分が目覚めているのか夢の中にいるのかわからなくなってきたころ、あたりをはばかるように低く小さく響く歌声を聞いた。
葬礼の老婆の声だ。同じ集落にいながら、エンジュたち子どもは一度も会ったことがなく、彼らの住みかを訪れたこともない。
声のするほうへ慎重に歩いていき、その天幕をみつけだすと、垂れ幕にそっと耳をあてた。
今まで一度も聞いたことのない歌だった。葬礼の歌とはちがう。
「だれだね?」
——怒られる。
エンジュは天幕を離れようとしたが、幕の隙間から出てきた小さい手にとらえられた。
「ロキや、つかまえておいで」
その手は冷たく、感触は力弱く、振り払おうと思えば振り払うこともできた。しかしエンジュにはできなかった。
「わたしは戦士見習いのエンジュです。もう戻って寝ますから、ゆるしてください」
「怒ってないよ」
歌でしかしらない老婆の声は、やさしかった。「バター茶を飲むかね。からだがあたたまってよく眠れる」
「お茶はいいです。歌がききたい」
「おや」
ほほえんだ気配。ロキと呼ばれた手が、エンジュの手を導くように引く。招かれるまま中に入り、エンジュは息をのんだ。
薄明かりの中で初めて対面した歌う老婆、ロキという少年、それに他の人々は、一人残らず布で目隠ししていた。
「けが、したんですか? ここはけがを治す家? あなたの歌でけがが治るの?」
「おやまあ」
天幕の中心にいる老婆が、目隠しの下で愉快げに笑う。
「ねえ、アラナのためにうたった歌とは、別の歌があるんでしょ? 歌は全部でいくつあるの? 葬礼以外では何のために歌うの? あなたたちは、だれ?」
「好奇心旺盛なお子。だけどね」
「わたしにそれを話すことは許されていない、でしょ?」
エンジュは先まわりして答える。エンジュたち子どもには、許されていないことがたくさんあった。葬礼への参列が禁じられているのは、そのひとつだ。
「賢いお子でもあるね。おまえが〈ティンダルの馬〉として生きていくのは、さぞつらかろう」
「——あ」
目隠しされた両目で、この老婆にはいったい何がみえているのだろう。
つらかろう、とはっきり言われた瞬間、エンジュの瞳から大粒の涙が落ちた。嵐のはじめの一滴のように、ぽつ、と大きな音をたて、地面に吸いこまれていく。
そして、またひと粒。またひと粒。次から次へと涙は落ちていく。やはり目隠しをしている女にバター茶入りの器をさしだされて受けとったが、なおも涙はあふれた。
「われわれは何も語らない。おまえのために歌うことはできない。だけど、おまえの涙を受けとめることはできる」
老婆の言葉ひとつひとつに、視界が揺らいだ。両目から落ちる涙が大地に浸透し、その奥深く〈草の海〉の水脈の中へと溶けていった。
目隠しをした女たちのことを大人に訊いても、黙って頭を振るだけだった。同じ寝屋の少女たちは知りもしなかった。褒賞として与えられるラピスラズリのことや、十六歳になったときに自分が選ぶ男のことばかり無邪気にさえずっては、毎夜深く眠っていた。
夜、目覚めているのはエンジュひとりだ。エンジュだけが、風にのって流れてくる夜通しの歌に、耳を澄ませている。
ときに、寝屋をぬけだして、謡い家にむかう。近づきすぎると、耳のよい彼女たちにすぐ勘づかれてしまう。中に招き入れられて、彼らは歌をやめてしまう。だからエンジュは、謡い家のそばにある天幕のかげで耳を傾けることにした。
静かな〈草の海〉の夜、風と草の葉ずれと、かすかな歌声だけが響いている夜。
〈石よ歌え 青き星々にいらえて〉
ときおり詩の言葉がききとれると、エンジュは口ずさんだ。音を頭に入れて口ずさむしか、詩を記憶しておく方法がない。
〈石よ歌え……石よ歌え〉
くりかえし、口にする。耳がとらえたとおりに、くりかえし歌う。
天幕の中では、老婆が先んじて歌い、次いで若い目隠したちが復唱していた。みなが正確に復唱できるようになるまで、老婆は何度でもやりなおしたが、若い目隠したちはエンジュが覚えるより早く歌を記憶してしまう。
ときおり、彼らと同じ場所ですごしたくなると、エンジュは天幕のそばまで行った。声をかけなくても、垂れ幕にそっと手を触れるだけで、中から手がのびてきて、少女を迎えた。
運命は、三度めの月例試合のときにやってきた。
「わたしは戦わない」
そのときも、エンジュは試合の場に引きだされて拒否した。
「なぜおまえは、ティンダルに生まれながら、戦うことを拒む」
何度も打ち据えたあとで、父である男は問う。
「どうして? わたしたちは仲間だ。仲間と戦ったり競争したりするのはおかしい」
「ティンダルの族長の娘が、訓練の意味を理解していないとは情けない。おまえにはもっと『実践的』である必要があるようだな」
父の合図で、エンジュの試合相手になるはずだった少年が円を出ていき、代わりに、大人二人に左右をかためられて、見知らぬ少女が入ってきた。
少女の目には、なんの感情もなかった。懲罰として与えられるものとはちがう、徹底した暴力の跡が、少女の全身いたるところに残されていた。傷だらけでありながら、まっすぐに立っていた。
波打つ髪と、同じ金色をした瞳は、傷さえなければどれほど美しいことだろう。
エンジュと同じ年頃の、奴隷の娘。
「マリオン」
その名前の響きから、異民族であることは明白だった。「戦え——戦って、おまえの運命を勝ちとれ」
最初のコメントを投稿しよう!