2話

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2話

「せんせい……っ! お願いしますっ、健優の顔を助けて下さいっ……!」  危篤の患者を運び込んで来たかのように顔面蒼白の小珠に比べ、怪我をした本人である健優と、治療を施す年老いた女保健医は至って安閑としていた。 「全く、いつもいつも大袈裟なのよ」 「ごめん先生、小珠って俺の事になると心配性だから」  小珠が健優を連れて保健室に飛び込んで来るのはこれが初めての事では無い。  保健医も慣れたものだ。 「小珠、終わったよ」  健優に言われ、小珠は恐る恐るそちらに近付く。  椅子に座ってこちらを見上げている健優の前髪をゆっくり持ち上げると、先程の痛々しい傷は絆創膏でしっかりと覆われていた。  ひとまずは安堵の溜め息を吐いたものの、新たな不安が込み上げてきて保健医の方を振り返る。 「せ、先生……、まさか傷が残ったりは……」 「残るわけないでしょう。そんな傷」  呆れたように言われ、小珠はようやく体の力を抜く事が出来た。  人懐こい顔で見上げてくる健優を見下ろし、ムッと眉間に皺を寄せる。 「いつもいつも言ってんだろ! 気を付けろよ、マジで!」 「はは、小珠は俺の顔が大好きだもんなぁ」 「分かってんなら自愛しろ!!」  小珠にとって、健優の存在は正に奇跡だった。  小学四年生の頃、小珠のクラスに健優が転校して来たのが二人の出会いだ。  自己紹介の為に教壇に立たされた健優を見て、小珠は思わず叫び出しそうになった。  あの日の衝撃はいまだに忘れられない。  日本とイタリアのハーフだという大人びた健優の顔は、まるで小珠の理想をそのまま具現化したかのように完璧だったのだ。  甘いカラメルソースを思わせる色の柔らかそうな髪に、くっきり二重まぶたとまんまる大きな瞳。  ふいに伏せられた目の下に浮かぶ影が、睫毛の長さと密度を物語っていた。  筋の通った高い鼻はそれだけで芸術品のようで、薄桃色のふっくらとした唇には思わず触れてみたくなる。  丁寧に磨き抜かれたみたいに汚れひとつ無い透明な肌。  口角の上辺りに、ちょんと落とされた可愛い黒子すら計算された装飾に見えた。  小珠だけではなく、クラスメイト達も皆、その余りの美しさに言葉を失っていた。彼は本当に、自分と同じ人間なのかと。  完璧。何もかもが完璧だった。生まれ変わったらこの顔になれるというのなら、喜んで死を受け入れられると思った程に。  テレビや雑誌、インターネット等で様々な美形を目にして来たが、誰も彼もが別の世界の住人だった。  それが、まさか、理想通りの顔が今、自分と同じ教室に居て同じ空気を吸っている。  一瞬目が合っただけで、あまりの尊さにたまらず崩れ落ちてしまいそうになった。  そんな、一方的な運命の出会いを経て、小珠の猛アタックが始まった。  とにかく、何としてでも仲良くなりたくて、隙があればここぞとばかりに話し掛けた。  高校生の健優しか知らない人間からしてみれば信じられない話かもしれないが、当時の健優は華やかな見た目とは違って冷淡で陰気な性格だった。  陰気、というより、何だか常に拗ねているような、そんな雰囲気だった。  一人でいる事を好み、自分から誰かに話し掛けている姿を小珠はほとんど見た事がなかった。  クラスメイトだけでなく、他のクラスの生徒や上級生までもが健優を取り囲んで必死に交友関係を築こうとしていたが、そんな性格のせいで健優の取り巻きは日に日に減っていった。  健優が根暗だろうが、話し掛けて冷たくあしらわれようが、それでも小珠は気にしない。  不機嫌そうな表情だろうが、呆れた表情だろうが、その顔を間近で見ていられるだけで心から幸せだったのだ。  その内に小珠の努力が実を結び、初めて笑顔を見る事が出来た瞬間は天にも昇る思いだった。  高校生になった今でも、健優が初めて自分に笑いかけた日を笑顔記念日としてスケジュール帳に書き込んでいる。  それからしばらくは大親友と言っても過言では無い程仲良くしていたが、中学校が別々になってからはあまり顔も合わせなくなった。  最初の頃は、たまに遊んだり電話したりしていたが、そのうち月に一度二度、メールのやりとりをする程度になってしまった。  中学に入学してからしばらく、小珠に初めての彼女が出来たのも原因かもしれない。  健優と一緒にいるのは楽しいし嬉しいが、彼女と共にいる楽しさや喜びは健優が相手では感じられないものだった。  健優の顔が恋しくなった時は、携帯の中にある専用フォルダを開けば充分に満たされる。  そうして疎遠になっても、メールや電話でのやりとりだけはたまにしていたので、健優が自分と同じ高校に入学する事も事前に聞いていた。  それは素直に嬉しかったが、入学式で久しぶりに健優の姿を見た時は、あまりの光景に卒倒しそうになった。  美しく愛らしかった顔には男らしさと色気が加わっており、小学生の頃は同じくらいだった背丈も十センチ近く差をつけられていた。  見事な八頭身へと成長を遂げた健優の、神々しさと言ったら。  ここが桃源郷なのだと言われても微塵も疑わないだろう。  そして何より驚いたのは、その天真爛漫さだ。  子供の頃の、ツンとした雰囲気は全く消え去っていて、声を掛けてくる人達に対してとても友好的に接していた。  信じられない程の笑顔の大安売りだ。  まるで別人のように人懐っこく、特に小珠に対しては飼い慣らされた犬のようだった。  冷たい性格という短所が無くなった事により、健優の人気は爆発的に上昇した。  健優レベルとまではいかずとも顔面偏差値の高い小珠と共に“神面(かみめん)コンビ”などと呼ばれ、学校中、町中の女性達のハートを独占していた。  そんな絶頂期の最中で、小珠の四股事件が起きてしまった。  小珠の株が大暴落するのに反比例して、健優の好感度は天井知らずに上がっていく。  誠実で、清潔感に溢れ、スキャンダルの影すら無い健優。  小珠がどれだけ綺麗に内側を磨いても、一度汚れた事実は変わらない。  傍らに、手垢ひとつ付いていない宝石が置いてあれば、むしろ小珠の汚れが際立って見える事だろう。  ほんの一年前までは、お互いを引き立て合う存在だったのに、今となっては健優は小珠の再起を阻む邪魔者になってしまった。  健優がいるせいで、と、逆恨みする気持ちはあるのだが、だからと言って、健優を陥れてやろうだとか、距離を置こうだとか、そういう事はどうしても考えられなかった。  いくら怒りや憎しみに支配されていても、健優の顔を見てしまうと何もかもがどうでも良くなってしまうのだ。  もう、ひたすらに、顔が良い。  ずっと笑っていてほしいと心から思う。 「……小珠、聞いてんの?」 「ぎゃあぁっ!!」  保健室から教室へと戻る道中。  ふつふつと湧き上がる憎しみと、奇跡の造形物への尊さに翻弄され自分の世界に耽っていた小珠の目の前に、健優の顔面が迫って来て思わず飛び上がる。  小珠は健優との間に一定の距離を保ち、ばくばくと弾む胸を両手で押さえ付けた。 「馬鹿! 俺を殺す気か!」 「あ、ごめん、急に声掛けて……」  違う。そうではない。急に声を掛けられた事ではなく、油断していた時に健優の顔がドアップで視界に入った事に問題があるのだ。  健優の顔を近くで見る時は心の準備をしてからでないと、あまりの衝撃に心臓が耐えられない事が多い。 「えっと、それじゃあ、小珠の近くに行っても良いですか?」 「……良いけど、別に」  笑いながらわざとらしい敬語で尋ねる健優に対して、小珠は少し不本意な表情で承諾の言葉を返した。  健優は嬉しそうに距離を詰めると、互いの腕がぴたりとくっつく程に体を寄せて歩き始める。  指を握られ、すりすりと撫でられれば流石に振り払った。 「うざいっ」 「小珠に触ってんの好きなんだよね」  好きだと言われれば悪い気はしないが、男二人でこんなに密着して歩くのは恥ずかしいし、何より周りの目が痛い。  ただ一緒にいるだけでも目立つ組み合わせだと言うのに。 「そう言えば、もうすぐバレンタインかぁ」 「あぁ……、あぁ……」  せっかく考えないようにしていたのに、健優の一言で去年の悪夢のバレンタインデーを思い出してしまった。  去年のバレンタインは四股事件のすぐ後で、ほとんどチョコを貰えなかった。  それまでは毎年何十個と貰っていたので、あんなに虚しいバレンタインデーは初めてだった。  今の状況では、今年のバレンタインも期待は出来ないだろう。  自分の机の中や下駄箱にひとつもチョコが入っていない光景を思い浮かべ、小珠は思わず溜め息を吐く。  しかし、小珠が想像しているよりも遥かに惨めなバレンタインデーが待っている事を予感させる出来事が、その日の放課後に起こった。 「ねぇ、ちょっと、聞いてる!?」 「こっちは大事な話してんだけど!」  下校を知らせるチャイムはとっくに鳴り終わっているというのに、小珠はいまだに自分の席から立ち上がれずにいた。  椅子に座って身を縮める小珠を、十人近い女子生徒達が取り囲んでいる。  昔のように、小珠の取り巻きがきゃあきゃあと騒いでいる訳ではない。  女子達の狩人のような視線に見下ろされ、小珠は俯いたまま恐る恐る口を開いた。 「でも、健優はチョコとか受け取らないと思うけど……」 「だから! じゃあどんなプレゼントなら受け取ってくれるのって!」  苛立たしげに机を叩かれ、思わずヒッと息を呑んだ。  つい一年前までは自分の取り巻きの一人として可愛らしく喋り掛けてくれていた女子生徒が、今は苛立ちを隠そうともせずに小珠に詰め寄っている。  好きな男の前と、そうではない男の前ではあからさまに態度が違うというのは人間には良くある事だ。  しかし、一時は好意的な態度を向けられていた分、あまりの豹変ぶりに恐怖を感じる。  苛立たし気な彼女達は、小珠からある情報を引き出したいようだった。 「健優君が好きなお菓子とか、欲しがってる物とか、小珠君なら知ってるでしょ! 仲良いんだから!」 「いや、だから、好きな物がどうこうじゃなくて、アイツ絶対受け取らないって……」 「良いから! とにかく教えてよ!」  健優は子供の頃から「女の子の好意に応える事が出来ないから」と言って女子達からのプレゼントを全て断っているようだった。  それを分かっていても諦めきれない女子は多く、バレンタインデーには健優の机やロッカー、下駄箱などにチョコやプレゼントが詰め込まれていた。  では健優は受け取る気の無いそれらをどうするのかと言うと、名前の分かる物は直接本人に返しに行き、差し出し人不明の物は学校の落し物置き場に全て持って行くのだ。  そのせいで、去年のバレンタインデーの翌日は職員室前の落し物置き場が目も当てられない状況になっていた。  けれど彼女達はそれでも諦めず、今年こそ健優に受け取ってもらいたいと言うのだから、大した執念だ。 「わ、分かったって……。今日健優と一緒に帰るし、聞いとくから……」  健優は絶対に受け取らない。  しかし彼女達にいくら言っても納得してもらえないだろう。  小珠はとうとう根負けし、情報提供に協力する事を了承した。  女子達の顔にようやく女の子らしい笑顔が戻る。 「じゃあ聞き出したらすぐに連絡して! 私の連絡先書いておくから!」 「私も!」 「私にも教えてよ!?」  一人の女子が自分の席からルーズリーフを一枚持って来ると、そこに自分の携帯の番号と名前を書き記した。  それに続いて、私も、私も、と、女子生徒達が連絡先を書き込んでいき、B5サイズのルーズリーフはあっという間に文字で埋め尽くされた。  女子から連絡先を教えてもらったと言うのにこんなに切ない気分になるのは初めてだ。 「それじゃ、よろしくね! 今日中に!」  賑やかに談笑しながら去って行く女子の集団を見送り、小珠はぐたりと机に突っ伏した。  ただ座っていただけなのに、とんでもない疲労感だ。  そのまま心身の回復を待つ事約十五分。  とんとんと背中を叩かれ、小珠は気だるげに顔を上げた。 「お待たせ、小珠」  健優が、にこりと笑みを浮かべる。  夕焼けに照らされたその顔はあまりに美しくて、映画のワンシーンのようだった。 「……うるさい馬鹿」 「え? なんでいきなり不機嫌?」 「お前が日直なんてやってるから……」 「ごめんごめん、これでも超高速で終わらせて来たんだって」  小珠は机の上のルーズリーフを折り畳んでリュックの中にしまうと、気怠い体を持ち上げた。 「健優は……、今年のバレンタイン何が欲しいとかあんの?」  駅へと続く道を歩きながら、何の脈絡も無くそう尋ねると、健優は驚いたように目を丸くした。  しかしその表情はすぐに崩れ、嬉しそうに口角を上げる。 「小珠がくれる物なら何でも」 「今そういうの良いから」 「本当に何でも良いって」 「俺からじゃなくて、女子から貰う物で」 「女の子からは貰わない。変に期待させたくないし」  予想通りの返事で、小珠は頭を抱える。  バレンタインを目前に色めきたっている女子達に、やっぱり今年も受け取らないそうです、なんて報告出来る訳が無い。  下手をしたら自分の身が危ない。 「じゃあ好きなお菓子とか、今欲しい物とか、何でも良いから」 「うーん、欲しい物はあるけど、お金じゃ買えないしな」  そう言いながら視線を向けられ、小珠はぐっと息を飲んだ。  今の首の傾げ方はとても良かった。  今度同じアングルで写真を撮らせてもらおう……。  うっとりと、健優の顔を眺める。 (……くっ、そうじゃない!)  自分の思考が別の方向に向かっている事に気付き、小珠は慌てて本来の目的を思い出す。 「金で買えないのは却下! 金で買えるやつ!」 「えぇー……、じゃあ、無い」 「本当に……、お前っ」  小珠の命に関わる事かもしれないのに、何と呑気な事か。  何の実にもならない問答を繰り返しているうちに、前方に駅が見えてきて焦燥感が押し寄せる。  小珠と健優は、いつもこの駅で別れるのだ。  女子達にはいっそ、適当な菓子の名前を報告してしまおうかとも考えたが、万が一不正がバレた時の事を考えると恐ろしくて実行に移せない。  その時、駅前にある洋菓子店の看板が視界に入り、小珠は「あっ」と声を漏らした。 「あそこ、あそこのマドレーヌ、美味しいって言ってたよな!」  小珠が指差し、健優がその先へと視線を向ける。 「あぁ、小珠が俺の誕生日に買って来てくれたやつ? 好きだよ」 「じゃあそれが健優の好きなお菓子で良いな!? はい、決まり!」 「なになに、どうしたの」  半ば無理矢理な目的達成ではあったが、女子達に報告出来る貴重な情報には変わりない。  健優が必ず受け取ってくれるお菓子の情報を欲している彼女達にとっては、些か意に満たないものかもしれないが。  その日の夜小珠は、駅前の洋菓子店の名前と、その店のマドレーヌの事を女子達に知らせた。  女子達は喜んでいたが、それがぬか喜びになるであろう事は簡単に予想がつく。  健優は、顔に似合わずなかなか頑固なのだ。  自分がこれと決めた事に対しては初志貫徹で、そう簡単に意志を曲げたりしない。  これまで、それが原因で何度も健優と喧嘩に発展した事のある小珠には嫌という程分かる。  今年も、落し物置き場に健優宛のプレゼントが山積みされるのかと思ったら、女子達の怨念が見えた気がして小珠はぶるりと体を震わせた。
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