3話

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3話

 バレンタインデー当日。  校舎の中はどこもかしこも浮ついた雰囲気で、女子も男子もそわそわと落ち着きが無い。  小珠はそんな空気に唾吐きたい気持ちで自分の席に座って不貞腐れていた。  ほんの数年前のバレンタインだったならば、靴箱にもロッカーにもチョコレートやプレゼントがぎっしり詰め込まれていて、それに加えて休み時間の度に女子に呼び出されていたというのに、今日は小珠に声を掛けようとする女子の気配すら無い。  三時限目が終わった現時点での成果は、たったの三個だ。  それも全てが義理チョコ。  バレンタインデーに貰うチョコやプレゼントの数など今まで気にした事など無かったが、黄金時代との落差が激し過ぎて流石に落ち込む。 「そう言えば健優の奴、休み時間の度に女子に呼び出されてるんだと」  小珠の机を共有して漫画雑誌を読んでいた男友達が、紙面から目を離さずにそう言った。 「あっそ」  小珠は無関心な反応を返す。  興味が無い、と言うよりは、当たり前の事過ぎて騒ぐ程の事では無いのだ。  昨年のバレンタインデーもそうだったが、健優は今年も教室の外を自由に出歩く時間すら無いだろう。  休み時間になれば小珠の教室へと顔を出す事の多い健優が、今日は一度も姿を現していないのが良い証拠だ。  過度にまとわりついてくる健優を鬱陶しいと思う事は多々あるが、こうして静かな時間を過ごしていると、それはそれで落ち着かなかった。  今、唯一の話し相手となり得る友人も、漫画雑誌に夢中で構ってはくれない。 「小珠君、ちょっと良い?」  携帯をいじって時間を潰していると、頭上から可愛らしい声が聞こえてそちらへと視線を向ける。  目の前に立っていたのは、数日前、小珠が売店から教室へ戻る際に告白して玉砕したあの女子生徒だった。  あれ以来何だかよそよそしくなってしまって、ほとんど言葉を交わしていなかったのだが。  小珠はふと、彼女が小さな紙袋を手に持っている事に気付き、どきりと胸を弾ませる。 「……どうした?」  もしかして、という期待で緩みそうになる表情を必死に引き締め、小珠はこれ以上無い優しい声で尋ねる。 「ちょっと小珠君に用があるんだけど……」 「うん」 「ここじゃ、ちょっと」  彼女は、小珠の隣に座っていた男子や、教室の中を控え目に見回し、気恥しそうに顔を伏せた。 「オッケー、場所変えよ」 「良いなぁ、俺もチョコ欲しい~」 「馬鹿、おちょくんな」  先程まで漫画に夢中だった友人が、にやついた表情で小珠と彼女を交互に見る。  彼女は否定する訳でもなくただ照れたように笑っていて、小珠の期待は益々膨らんだ。  彼女を連れて教室を出た小珠は、廊下を歩きながら人気の無い場所を探す。  他の教室から少し距離を空けた所にある生活指導室の前で、小珠は視線を止めた。  大半の生徒達にとっては自ら近寄ろうとは思えない場所なのか、他の教室の前には数多くの生徒達の姿があるのに対し、生活指導室の周辺だけは綺麗に人が居ない。  決してムードの良い場所では無いが、授業と授業の間の短い休憩時間ではあまり教室から離れる事が出来ないので、妥協が必要だった。  あそこで良いかと小珠が尋ねれば、彼女からは了承の言葉が返って来た。  向かい合い、彼女の言葉を待つ。  小珠の心臓はスキップでもしているかのようにリズミカルに弾んでいた。 「小珠君、これ……」  目の前に差し出された可愛らしい小ぶりな紙袋を、喜びを噛み締めながら受け取った。  この紙袋のデザインには見覚えがある。  一粒数百円の高級洋菓子ブランドのもので、モテ全盛期の頃に何度か貰った事があった。  そんな値の張るチョコを、わざわざ場所を変えて渡してくれたのだ。まさか義理チョコなどとは言わないだろう。  モテの底辺へと陥落するまで、女子から貰う本命チョコがこんなにも貴重な物だとは思わなかった。  ありがとう、と、キメ顔でお礼を言おうとした小珠を、彼女の声が遮る。 「お願い、健優君に渡して……!」  ……うん? 聞き間違いだろうか?  小珠君の事が好きです付き合って下さい、と言われたんだよな?  まさか、健優にこのチョコを渡してほしいなんて、そんな事言われてないよな?  キメ顔を保ちきれなくなった頬の筋肉が、ひくひくと震える。 「今朝渡しに行ったんだけど、貰えないって言われて……。でも小珠君から渡せば受け取ってくれるかもしれないでしょう? 健優君と一番仲良いよね?」  抜け殻のように呆然と立ち尽くす小珠に、彼女は容赦無くトドメを刺した。  自分の為に用意された物では無いと分かった途端、手に持った紙袋がひどく邪魔な物に思えた。  ほのかに漂って来る甘い香りすら鬱陶しい。  小珠は弱々しく溜め息を吐くと、受け取った紙袋を彼女の前に突き返す。 「ごめんだけど……、俺を通してもアイツは受け取らないよ……」 「そこを何とか出来ないかな? 私からって事は言わなくても良いから!」 「えぇ? それで受け取ってもらったとして何の意味があんの?」 「健優君が、私が用意したチョコを食べてくれたって事に意味があるのっ」  全くもって、小珠には理解できない思考だった。  そもそも、ほんの数日前に振ったばかりの男にこんな事を頼もうとする神経自体がおかしいが。  無理だ、アイツは受け取らない、と何度も言い聞かせても、彼女はかたくなに引き下がろうとしない。  彼女の控え目で謙虚な所が魅力的だったのだが、どうやら小珠の見込み違いだったようだ。  最低な噂が広まってからも自分と仲良くしてくれていたのは、まさか健優に近付きたいが為だったのでは、と脳裏を過ぎり、慌ててその可能性を振り払った。 「いや、ほんと、無理だって。 てかこれ本命だろ!? 匿名で受け取ってもらって何になるわけ!?」 「そ、そんな事言わないで……、こんな事頼めるの小珠君しかいないのに……」  悲しそうに顔を歪めた彼女は、手で顔を覆って俯く。  言い過ぎてしまっただろうか。  小珠は今更自分の口元に手を当て、声を荒らげてしまった事を反省した。 「お願い……、小珠君。ただ、ただ、健優君に、私の気持ちを受け取ってもらいたいだけなの。応えてもらえなくてもいいの……」  悲哀に満ちた声で懇願され、これ以上拒否の言葉を口にする事がひどく躊躇われた。  小珠はこれまで、数え切れない程の女性と付き合い、いろんなタイプを見て来た。  嘘泣きであったり、甘え上手であったり、こうすれば男は自分の言う事を聞いてくれると理解している打算的な女の子は何人もいた。  彼女のそれが演技なのかそうでないのかは小珠には判断出来なかったが、どちらだったとしても、落ち込んだり悲しそうにしている女の子の姿を前にすると心を揺さぶられずにはいられなかった。  小珠の返事を急かすように、授業開始三分前のチャイムが校舎に鳴り響く。 「わ……、分かった……、分かったから……! でも、ほんと、匿名として渡すから、アイツからの見返りを期待しても無駄だから……」  とうとう、小珠の方が先に屈してしまった。 「渡してくれるの!? 小珠君有難うっ!」  よろしくね、と手を握られたが、小珠は渇いた笑いを返すしか出来ない。  何度もこちらを振り返りながら満面の笑みで立ち去って行く彼女の姿を見送り、小珠は項垂れる。  片手に持った小さな紙袋がやけに重く感じた。 (やっぱりいないか……)  渡すからと了承してしまったものの、二月十四日に健優と校内で接触する事は簡単な事ではない。  毎時間、授業が終わってすぐに健優のクラスに出向いてはみるのだが、健優は既に教室にいなかったり、今まさに女子に連れ出される所だったりで、声を掛ける事すら出来ていない。  どうせ断るのならばその場で断れば良いものの、そういう呼び出しに全て応じているから女子達に期待を持たせてしまうのだ。  小珠は少し不機嫌になりながらも、教室の前でターゲットの帰還を待つ。  長い昼休みならば流石に会えるだろうと思ったが、いまだ健優を捕まえる事は出来ていない。昼休みの残り時間はもう少ない。 (……アイツ、まさか飯も食べてないんじゃ?)  なかなか目的を果たせない苛立たしさよりも、健優の身を案じる気持ちの方が大きく膨らみ始めた。  携帯を取り出し、メッセージアプリを起動する。  数時間前に健優宛に送った、休み時間に会えないか、というメッセージは未読のままだったが、再びメッセージを送信する。  “今、お前の教室の前にいるんだけど。ちゃんと飯食った?”  しばらく画面を眺めていたが、それに既読を示すマークが付く気配は無い。  小珠は諦めて携帯を制服のジャケットにしまう。  周囲を見渡しても、あの目立つ体躯と顔はどこにも見当たらない。 (……あと五分待って帰って来なかったら教室に戻ろう)  明らかにチョコレートが入っていると分かる紙袋をぶら下げて、違うクラスの前で長時間突っ立っているのはとてつもなく恥ずかしい。ただでさえ小珠は良い意味でも悪い意味でも目立つのだ。  それに、まだ昼食をとっていないのでさっきから腹の虫が何度も鳴いている。  そろそろ諦めるか、と、小珠が立ち去ろうとした時。 「小珠……っ!」  どこからともなく健優の声が聞こえ、周囲を見渡す。  小珠が声の主を確認するよりも早く、長身の男が物凄い勢いでぶつかって来た。  そのまま抱き付かれたので弾き飛ばされる事態は避けられたが、自分の体を拘束する両腕のあまりの力強さに小珠の口からは短い呻き声が漏れた。 「健優……っ、おま……っ」 「ごめん小珠、メッセージ、気付かなくて、こんな所でずっと待たせて……っ」  まるで北極に何ヵ月も置き去りにされていた小珠をようやく見つけ出したかのように切羽詰まった様子の健優だが、小珠が待っていたのは教室の前で、しかもほんの二十分程である。  周囲の視線が自分達に向いている事に気付き、小珠は慌てて健優の体を引き剥がす。 「お前なぁっ、こんな……っ!」  健優は誰に対してもスキンシップの多い人間であったが、小珠に対しては特に激しい。  ついこの前も人通りの多い駅前で抱き締められ、それに対して説教をしたばかりだったのだが、健優の耳には右に左だったようだ。  再び言い聞かせようと、怒気のこもった視線を健優の顔に向ける。 「……何?」 「いや、だから、こんな、人前で……」  健優の顔を見た途端、風船から空気が抜けていくみたいに小珠の怒りが萎んでいく。  何故この男はこんなに、ひたすらにカッコイイのか……。  久しぶりに見る、とは言っても昨日も会っているのだが、そのあまりの造形の美しさに溜め息しか出ない。  少し落ち込んでいるように陰った頼り無い表情はひどく愛おしく、激しく撫で回してやりたい衝動に怒りの感情が押し流されていく。 「小珠?」 「……っ!」  健優に名前を呼ばれ、小珠はようやく我に返る事が出来た。  慌てて一歩後退り、健優の顔を真正面から見てしまわないように僅かに視線を逸らす。 「め、飯は!? ちゃんと食ったか!?」 「え、あ、うん。昼休みは校舎裏に隠れてて、ご飯もそこで食べた。ごめん、小珠には言っておけば良かったよな」 「連絡したのに返事無いから、さすがに心配しただろ」 「電源切ってたんだ。メッセージとか電話とかひっきりなしだったから……」  健優の憂いには小珠も心当たりがある。  告白だったり、会う約束を取り付けようとする内容だったりと、バレンタインデーにはいつもの二倍くらいの連絡があるのだ。  小珠は毎年恒例だとあまり気にしてはいなかったが、健優はそれが煩わしくて仕方無いらしい。 「小珠、俺に何か用だった?」  健優に問われ、ここで待ち伏せしていた目的を思い出す。 「いや、これ……」  チョコレートの入った紙袋を差し出そうとした所で、小珠は動きを止めた。 (……何て言って、渡せば)  女子から渡してほしいって頼まれたんだけど、と正直に言ってしまえば完全にゲームオーバーだ。   健優に渡さなければという意識だけが先走り、どんな理由をつけて渡すかを全く考えていなかった。  健優はきょとんとした顔で、小珠の言葉を待っている。 「あの、健優君!」  小珠が必死に言葉を探していると、痺れを切らしたかのように女子生徒が割り込んで来た。  彼女はどこか緊張した面持ちで、ハート柄の描かれた小さな紙袋を両手で大事そうに抱えている。  ちらちらと自分の方へ向けられる視線の意味を小珠はすぐに理解し、一歩二歩と後ずさった。  彼女は小珠に対して礼儀正しく頭を下げると、健優の目の前へと歩み出る。 「健優君、ちょっと、時間良いかな?」 「……ごめん、俺、今、小珠と」 「良いよ健優、聞いてやれよ」  小珠が横槍を入れると、健優は苦虫を噛み潰したように表情を歪めて小珠の方を見た。 「でも小珠、俺に何か用事があるんだろ?」 「良いよ俺は、後で」 「………」 「今日一緒に帰る時で良い。……つか、今日一緒に帰る、よな?」  健優とは毎日のように一緒に帰っているが、別に約束をしているわけでは無い。  バレンタインデーの今日はもしかして先客がいるのではないかと不安になり尋ねれば、健優は少し嬉しそうに頷いた。  一緒に帰ろうと小珠が自ら提案したのは大分久しぶりの事だ。  健優の方からやって来て、一緒に帰ろうと言われるのが定式だった。 「小珠。帰り、待っててよ。先に帰るなよ?」 「分かってるって」  何度もこちらを振り返りながら去っていく健優が疲れ気味で可哀想にも見えたが、 女子の乱入は丁度良い助け船になった。  放課後までに、何か説得力のある理由を考えなければ。  健優と女子生徒が階段を下っていくのを見送ってから、小珠は二人とは反対の方へ歩き出した。
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