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すると、太くてゆったりとした声がどこからか聞こえてきた。
「ねぇねぇ。」
頬にはさっき感じたのと同じ吐息を感じる。この吐息の主は熊ではないのかもしれない。そう思っておそるおそる薄目を開けた。そこにはやはり、黒い毛むくじゃらの顔があった。
「あ。気が付いた。」
男は息ができなかった。理解が追い付かなかったのだ。死んだふりに失敗した絶望感と目の前の獣への恐怖心、熊が喋っている事実への驚きが彼の頭の中に渦巻いていた。
「なんで、そんなにこわがってるの?」
熊はのんびりと喋っている。落ち着いて見ると、熊の顔は穏やかに見えた。
「私を食べないのか?」
依然震える声で男が問いかけると熊は首をかしげた。
「ぼくはね、きのみがすきなんだ。あかいやつ。あまくておいしい。」
旅人はその言葉を聞いて安心した。体の震えはおさまらないが、よく見たら可愛い目をしているではないか。奪われていた呼吸を取り返すかのように、彼は長いため息をついた。
「そうだ。ぼく、たからもの、あるばしょしってるよ。」
「私に教えてくれるのかい。」
「うん。きみたち、もうともだち。あした、またここにきて。」
「分かった。友よ。また明日な。」
「うん。ともよ。ふふ。ともだち。またね。」
旅人は、無害とは分かっていても熊を早く追い払いたかった。一方熊はそうとも知らずに上機嫌に去っていった。
熊の姿が見えなくなると、木の上から髭の男が降りてきた。
「大丈夫だったかい。」
「ああ。おかげさまで。君は、まあ、聞くまでもないよね。」
白々しくも心配顔をして問いかける相方に、帽子の男は目も合わせず冷たく応対した。さすがにばつが悪くなった髭の男は、頭をかきながらにやけて謝った。
「悪かったよ。でも、僕だって必死だったんだ。分かるだろ?それはそうと、熊と話していたように見えたが、熊は何と言っていたんだい。」
なんとも軽い男だ。謝って済むことでもないのに、ただ謝ることすら満足にできないとは。
彼は腹を立てながらも、熊との話をそのまま伝えようと口を開いた。しかし、思い止まった。『宝物』という言葉が頭を過ったのだ。何も正直にこいつに教えてやる義理などない。最初に裏切ったのはこいつの方なのだ。
「『いざという時に自分だけさっさと逃げるような奴と一緒に旅をすべきじゃない』と言われたのさ。獣でも分かることだって訳だ。」
うつむく髭の旅人をよそに、帽子の男はさっさと歩き始めた。髭の男も、その後を追いかけるような野暮なことはできなかった。
その夜、男は帽子を横において横になり、腕枕をしながら星を眺めていた。どうもうまく寝付けないのだ。それは断じて、一人で寂しいからではなかった。宝物の場所を知っているという熊の話が頭から離れないのだ。『また明日』などと言ったが、彼は戻るつもりなどなかった。しかし、宝があるというなら話は変わってくる。
罠だろうか。いや、あの熊がそこまで賢いとは思えない。それに、もし罠だとしても警戒していればどうとでも対策のしようがある。人間様をなめてもらっては困る。
本当に宝はあるのだろうか。あれだけ簡単に教えてくれるのであれば、もう他の人間に取られていてもおかしくはないのではないか。男は自分の考えに首を振った。思い返せば簡単とはとても言えない。熊を見たら普通は一目散に逃げ出すだろう。それに、死んだふりをしたとしても、耐えられずに途中で逃げ出したり、気絶してしまったりするかもしれない。自分みたいに踏みとどまり、耐え続けたからこそ知ることができたのだ。
旅人はにやついた。そうに違いない。あれは宝を手に取るに相応しいかを試すテストだったのだ。自分は選ばれたのだ。彼は軽やかなため息をついて寝返りをうった。そしてそのまま吸い込まれるように安らかな眠りについた。
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