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結果として、天は壊れなかった。
あんなに恐れて、避けて、見ないフリをしていたものを目の前に差し出されて。天自身、それと対峙した時、自分は壊れてしまうのではないかと頭の隅で思っていた。
けれど、実際は壊れてしまうなんてことはなく、むしろ今まで宙ぶらりんになっていた点と点とがスルスルと結びついていくような、心に巣食った靄が晴れていく気がした。
少しずつ目を開いて、逸らしていたものと向き合う。
あの時の行動も、この時の衝動も、恋をしてたからなんだ。
ドス黒い嫉妬も、後ろ暗い衝動も、早すぎる鼓動もーー。
思い返してみると、まるで恋愛の初期症状のお手本のようだ。
ずっと気がついていたんだ。
頭のどこかで、体のどこかで、ずっと好きだって全身が叫んでいたのに。
意地を張って頑なに認めなかった。御桜が好きだ、って認めなかった。
意地を張り続けた。その果てがこれだ。天は御桜を傷つけて、気まずくして、それで、御桜は事故に遭った。
今更認められたってなんだ。今更どうしようもない。もう、御桜の傷は消えない。一度つけてしまった傷は、二度と消えないのに。
自分のせいだ。全部全部自分のせい。
ばかだ。ばかだ。
どうしてこんなことになるまで、こんなにも簡単な答えに気がつけなかったのかーー
ーーだって、おかしい。
天も女で、御桜も女で。
女が女を好きって、おかしい。
女は男を好きになって、男は女を好きになる。
それが、当たり前。
女が好きな私は当たり前じゃない。
周りと違うということは、怖い。
だから、認められなかった。自分が人と違うと認めるのは怖かった。
認めてしまえば、1人全く知らないところにポツンと置き去りにされてしまう。叫びたくなるほど寂しいことだ。
……、天が男だったら、或いは御桜が男だったら、もっと早くに認められていたんだろうか?
……、なんで天も御桜も女なんだろう?
ーー、もっと、もっと普通に恋をしたかった。
当たり前に御桜を好きでいられる存在でいたかった。
「佐薙さん。」
しばらく経った頃、秋穂先生の静かな声が聞こえた。
けれど、天は顔を上げられなかった。
秋穂先生は名前を呼んだきり何も言わない。
隣に気配がして視線だけそちらに移すと、秋穂先生が隣に腰掛けていた。
またしばらく無言が続いた。2人を静寂が包み込む。
秋穂先生が口を開いた。
穏やかな波が秋穂先生の口元から波及する。
「私、最近結婚したじゃない?今ね、毎日毎日幸せで仕方ないの。」
なんの話だろう?
けれど、秋穂先生がこんなに素直な言葉で話すことは珍しいからきっと大切なことを教えてくれようとしているんだろう 。
「私のこの指輪の相手ね、女性なのよ。」
え…?
この時、やっと天は秋穂先生の方を見た。
秋穂先生は前を向いていて、横顔が見える。
スッキリとした鼻梁と、切れ長な目尻。一見冷たく見えるその顔がふっと息を吐き出して緩む。その表情は何かを悟ったかのようで、けれどどこか少女めいたものを感じさせた。
「高校の後輩だったの。あるきっかけからよく話すようになって、それから好きになるまではあっという間だったわ。私ね、元々女性のことしか好きになれないのよ。自覚したのは小学生の頃だったかしら。その時はとても悩んだわ。人並みにね。幸い家族がそういうのを受け入れてくれる人たちだったから、そこまで思い詰めることはなかったけれど。」
秋穂先生の表情は変わらず穏やかだ。 天も一心に耳を傾けた。
「それで高校で出会った彼女に私は惹かれたのね。でも彼女は普通の人だった。当たり前って言えば当たり前ね。偶々好きになった人が私と同じような同性を好きになる人でした、なんて、ほとんど有り得ないことだわ。
私は振られるのを覚悟して彼女に告白したの。それで彼女は私の告白を受け入れてしまった。女子校っていう環境がそれを許してしまっていたのね。
ああ、私この学校の卒業生なのよ。まだ高校からの入学があった頃の。
それからは、本当にもう色々あった。彼女は私を傷つけたし、私も彼女を傷つけた。お互いが何も信用できなくなって、もう一緒にはいられないと思ったこともあった。あの頃のことを美しい思い出として語るには、まだ時間が許してくれないけれど。」
秋穂先生はポツリポツリと水面に雫を落とすように語った。
「でもね、今はとても幸せなの。いままでのことは何もなくならない。水に流れることは決してないわ。今も私や彼女の胸には刺し違えた傷が残ってる。
でも、その傷があるからこそ得られる幸せがあると思ったの。彼女とパートナーになって、心から信頼できるようになった今は、とてもそう思う。だって、互いの傷を癒してあげられるのは、私たちだけなんだから。」
天はハッとした。
なぜ今、秋穂先生は天の前でこんな話をするのか。
一度だって口に出したことはないはずなのに、秋穂先生は全て知っていたということか。
「女と女。そこにあるのは愛情。世間様の目から見たらおかしな、歪なものなのかもしれない。けれど、誰に否定されたとしても、私のこの気持ちが嘘だなんて思わないし、今ここにある幸せが嘘だなんて思わない。迷って、悩んで、足掻いて、それで手に入れたこの幸せを否定なんかさせるもか、ってね。」
秋穂先生はまたいつものニヤリとした顔に戻っていた。
秋穂先生が天に振り向く。真剣な眼差しが心の奥に差し込んだ。
「佐薙さん。物事はその一瞬を逃したら取り返しがつかなくなるものよ。」
「え…、」
心が冷えた。もう、手遅れなのか。
「でもね、先生があなたにいいこと教えてあげるわ。」
秋穂先生は顔を寄せて優美に微笑んだ。
「あなたはまだ、手遅れじゃない。」
天は全身の血が静かに沸き立つのを感じた。無気力だった四肢に生気が漲る。
秋穂先生は顔を遠ざけてふっと笑って立ち上がった。立ち去る間際、天に向かって厳しく言い放った。
「これから、あなたはどうしたいか、どうなりたいか、よくお考えなさい。」
そう言うと、それじゃね、と言って背中を向けてしまった。
先程の長い話などまるでなかったかのように。
屋上には、天とプリムラの植木鉢が残された。
天はその鉢をぎゅっと抱えると、空を振り仰ぐ。
空には、先程まではなかった真っ白な雲がいくつかプカプカと浮かんでいる。
天の頭上を清涼な風が吹き渡った。
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