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15 春、病室
あれから1週間。
季節は春へと移り変わった。僅か1週間の間に冬から春へと街は姿を変える。
空気や、風や、匂い。
それらが姿を変えるには、1週間という時間はとてもあっという間だ。
しかし、天には同じ1週間が千もの季節を経たように感じられた。
そして、春の暖かな日差しが降り注ぐ日。とうとう、御桜が目を覚ました。
1週間前のあの日から天は昼休みを一人屋上で過ごすようになった。
その日も本を読みながら1人で昼休みを過ごしていた。
秋頃に風邪をひいて以来、天は体調には今まで以上に気を使っていたから、首にマフラーを巻いていた。
何より、あの風邪をひいて以来、御桜が天の体調をすごく気遣ってくれるようになったから。それがとても嬉しかったから。御桜がいなくても自分の体は大切にしようと思った。
そこに、普段は水曜日しか来ない秋穂先生が息急き切って駆け込んできた。秋穂先生のあんなに焦った様子は初めて見た。
何事かと思って駆け寄ると、
「目を…神楽さんが、目を覚ましたわ!さっき、学校に連絡があって、今朝目を覚ましたって。」
突然の待ちに待った報せに、天は一瞬固まった。
ーー御桜が、御桜が目を覚ました!御桜が戻ってきた!
身体が震えだす。そしてそのままその場にしゃがみ込んだ。
もう体に力が入らなかった。
安堵と歓喜と、色々な感情が一度に押し寄せて、天は秋穂先生の目の前で盛大に泣き出した。
秋穂先生はずっと頭を撫でてくれていた。
おかげで今すぐに御桜の元に走って行きたくなる気持ちを抑えることができた。
扉を目の前にしたまま、天は15分近く固まっていた。
この扉を引いたら、御桜に会える。2週間以上眠り続けた御桜に、いつも寝顔ばかり見つめていた御桜に。
しかし、天は扉を中々開けないでいた。
御桜が眠り続けている間に、天は御桜への気持ちを自覚した。どうしたって、今までと同じではいられない
気持ちを伝えるのか、伝えないのか。それはまだ分からない。
事故に遭う前、あんなにも天は御桜を傷つけたのに、今更なんて言えばいいのか。
とにかく御桜に会って、御桜の顔を見てから決めようと思っていた。
特に何も決めずに、会いたい、の一心で来たら、直前で躓いた。
扉の前に立ったら突然色々な思考が巡り巡って、足が竦んだ。
「後ろ失礼します。」
1人扉の前で立ち尽くして考えに耽っていたら、突然後ろからリノリウムの床を滑る車輪の音と、看護師さんの声が聞こえてきた。
それまでぼけっとしていたせいで、突然入り込んできた音にビクッと飛び跳ねた。
その衝撃で、体が御桜の病室の扉に当たった。
スライド式の扉は派手な音を立てた。
「母さん?」
中から声が聞こえてくる。
懐かしい声。
御桜が眠りについてから1ヶ月も経っていないのに、どうしようもなく懐かしさがこみ上げてくる。
その声を聞いたら、ただ会いたいの一心でここまで来た時の衝動が蘇る。
天は、扉を開いた。
「御桜…、」
御桜がいた。御桜が、顔を上げて、その琥珀色の瞳に光を宿している。
天を、見ている。
「天」
御桜が、笑った。
夢でも幻覚でもない、本物の御桜が、そこにはいた。
「そう、それでね、その時秋穂先生が…。」
御桜の病室には笑い声が響いていた。
天と御桜はギクシャクし出す前の様に笑い合った。御桜が眠っていた間のことを一つ一つ話して、開いた溝を埋めていくかのように。
天は御桜の笑った顔が好きだ。
だから、決めた。
ーーこれ以上、御桜を傷つけたくない。御桜の笑顔を奪いたくない。
天の持つ感情は、醜くて、気持ち悪くて、御桜を傷つけるものだ。
打ち明ければ、御桜の負担にしかならない。
だから、御桜にはこの気持ちは伝えない。少しでも長く御桜の笑った顔を見ていたいから。
大丈夫。ちゃんと隠せる。ちゃんと感情の正体がわかってるんだから。
何もわからないまま無為に御桜を傷つけるより何倍もましだ。
自分の感情と向き合うことができる人は強いんだから。
天は笑顔の裏側で固く悲しい決心をした。
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